気鋭のライター、長期取材による傑作ノンフィクション!

2019/3/20@福岡・本のあるところajiro 橋本倫史×見汐麻衣 「ただ それだけのこと」『ドライブイン探訪』刊行記念トークイベント

橋本
今回、「本のあるところajiro」でトークイベントを開催することになったきっかけは、お店の方から「いつか弊店で刊行記念のイベントをしていただけないか」とメールをいただいたことにあるんです。そのメールをいただいたその日のうちに「もし福岡でトークをするのであれば、見汐麻衣さんと」と返信して、今日の会が催されることになりました。
見汐
よろしくお願いします。結構飲む人なんですね?
橋本
結構飲みます。人前で話すのは緊張するからというわけでもないんですけど、ここまでのトークは毎回お酒を飲みながら話していて、今日も飲みながらトークさせていただきます。でも、僕はまだ今日3杯目ですけど、見汐さんはもう結構飲んできたんですよね?
見汐
はい。でも、ちゃんとおしゃべりできると思います。
橋本
僕が見汐さんとトークしたいと思ったことには、いくつか理由があるんです。この『ドライブイン探訪』は、文字通りドライブインを取材した本なんですけど、僕が最初にドライブインを巡り始めたのは2011年だったんですね。
見汐
それを聞いて、「そんなに前からやってらっしゃったのね」と、びっくりしました。
橋本
軽バンを持っている友人から「1ヶ月くらい使わないから、取材したいテーマがあれば使っていいよ」と言われて、「じゃあドライブインを巡ってみよう」と旅に出たのが2011年の夏の終わりなんですけど、数枚だけCDアルバムを積み込んで、そのうちの1枚が見汐さんが組んでいた「埋火(うずみび)」というバンドの『わたしのふね』というアルバムで。埋火は福岡で結成されたバンドで、見汐さんも九州にゆかりがあるということもあって、「ぜひ見汐さんと」とお願いしたんです。今日はトークが始まる30分前に見汐さんにお会いしたんですけど、そのときから緊張していて。ここまで『ドライブイン探訪』の刊行記念トークイベントをいくつか開催してきましたけど、ゲストにお呼びしたのは何度も話したことがある方ばかりだったんです。でも、見汐さんとはほぼ話したことがなくて。
見汐
ライブにきてくださる姿をお見かけすることは多々あるんですけど、橋本さんはだいたい飲んでらっしゃるから、話したことはないんです。
橋本
見汐さんは2017年3月から、高円寺の「円盤」というお店で「うたう見汐麻衣」という企画を隔月で開催されてますよね。『ドライブイン探訪』は『月刊ドライブイン』というリトルプレスが元になっているんですけど、この創刊号が刷り上がったのも2017年3月だったんです。僕はほぼ毎回「うたう見汐麻衣」を聴きに行って、見汐さんの歌を聴きながら考えていたことがあって、その話をぽつぽつできたらなと思っています。
見汐
私で大丈夫かわからないですけど、よろしくお願いします。
誰かの記憶が詰まった歌謡曲
橋本
ドライブインを取材するなかで感じたことはいくつもあるんですけど、その一つに、「歌っていうものは、ドライブインって場所と相性がいいんだな」ということがあって。『ドライブイン探訪』で取材したお店は22軒あるんですけど、そのうち2軒がカラオケを楽しめるお店なんですよ。
見汐
読みました。最初に『月刊ドライブイン』として出版されていたときに、橋本さんから1冊いただいて、それが面白かったので、他の号も中野にある「タコシェ」というお店に買いに行きました。それがこうして1冊になって読むと改めて面白かったんですけど、そこに歌のことがあって。
橋本
そのうちの1軒は現役のドライブインではなくて、ドライブインをされていた方の息子さんが店を引き継いで、現在はカラオケ喫茶として経営されているお店なんですけど、もう1軒はドライブインとして営業を続けながらも、夕方5時になるとカラオケが歌える店になるんです。そのお店を取材していたときに、歌とドライブインは重なるものがあるなと思ったんですよね。それと同時に、「これまで自分は、『歌とは何か?』ということをあまり考えずに生きてきたな」と思って。そもそも僕はあまり音楽になじみのない少年時代を過ごしていたんですけど、見汐さんは小さい頃から歌に縁があったんですよね?
見汐
そうですね、ありました。私は佐賀県の唐津市ってところで生まれて、小さいときに父親の実家に預けられて育ったんです。そのとき、おじいちゃんおばあちゃんに「幼稚園の皆が持っているオモチャを買って欲しい」と言えなかったんですね。どうしたらいいんだろうと思っていたら、「自分で稼ぎなさい」とおじいちゃんに言われて。そう言われても、「うん?」と思うじゃないですか。まだ3歳とかだったので、「稼ぐって何?」ということがまず一つあって、おばあちゃんに稼ぐってどういうことかと尋ねたら、「老人会で旅行に行くんだけど、そこで歌を歌えばおひねりというものがもらえるから、それでオモチャを買えばいいんじゃないか」と言われたんです。うちのおばあちゃん裁縫の先生をやっていたから、上等な着物をこしらえてくれて、それを着て歌ったんです。そうしたらお金が本当に飛んでくるんです。それでオモチャを買ったときに、「歌えばお金になるんだ」っていうことを刷り込まれたんですよね。今もそれを生業としているんですけど、ミュージシャンになりたいというより、そういう環境の中で歌えばお金になるんだっていうのが小さいときからあって、それをそのまま続けている感じなんですよね。
橋本
そういう場所で歌うとなると、自分はこの歌が好きだから歌うってことよりも、この歌を歌えばおひねりがたくさん飛んでくるなってことが基準になってきますよね。
見汐
三十何年前のおじいちゃんおばあちゃんは戦争を経験している人たちだから、日本が復興していく中で流行った「戦後歌謡」と呼ばれる歌を歌うと皆さん喜ぶし、泣いたり笑ったりされてたんですよね。それは自分が好きな歌かと問われると、そうではないわけですよ。でも、それを歌うと皆が喜んで、ちり紙に巻かれたお金がたくさん飛んでくる。そこで歌いながら、ただ単純に楽しいなと思ってました。
橋本
その戦後歌謡は、おじいちゃんおばあちゃんたちの記憶が詰まった歌だったということですよね。その歌を耳にすることで過去を思い出して、懐かしくなったり感極まったりして、それでおひねりが飛んでくるわけですよね。もちろん3歳の時点ではそんなふうに言葉で考えないにしても、そういう構造になっているんだということは当時から意識してたんですか?
見汐
うちのおばあちゃんは戦争が終わるまで満州にいて、小さい頃から「満州」という言葉は聞いていたんです。満州から引き揚げてくるときに、大変な思いをした話を聞かされたり、同じような方たちもきっとたくさんいて、たとえば並木路子さんの「リンゴの唄」を歌うと、きっとその人たちの中で思い出す何かがたくさんあって、それで泣いたり笑ったりするんだろうなということは幼心に感じていたんですよね。その思い出が苦い思い出なのか楽しい思い出なのかはわからなかったけど、きっと何かあるんだろうなということは、皆さんの表情を見て思ったりしてました。
橋本
それはつまり、自分は知らない誰かの記憶に触れるってことでもありますよね。それって結構すごいことだと思うんです。幼い頃は無邪気にやっていたとして、成長するにつれて「自分がやっていたのはそういうことだったのか」と気づいて愕然とする瞬間が訪れたりはしなかったんですか?
見汐
愕然と――。ちょっと話がズレますが、私の母親は飲み屋を経営していたんですけど、母親と一緒にいたいから、週末になると夜は飲み屋で過ごしていたんですね。それはちょうどバブルがはじける前の時期で、ものすごく田舎の店だったけど、繁盛していたんです。そこで歌うと、老人会で歌っていたときみたいにお金がもらえるんですね。お客さんの中にカタギじゃない人がひとりいて、その人は母のことが好きだったっていうのもあるとは思うんですけど、そのお客さんは私の歌を聴くと「明日から頑張ろうってほんとに思うんだ」と言ってくれていて。それを聞いたときに、大人も色々あるんだな、大変なんだなと思ったのはおぼえています。
記憶に触れることのおそろしさ
橋本
なんでその時代の話をしつこく聞いているのかっていうのは、理由があるんです。『ドライブイン探訪』で取材したお店は、少なくとも3回は訪れているんですね。千葉の南房総市に「なぎさドライブイン」というお店があって、そこも最初は普通にお客さんとして訪れて、2回目はちょっと長居をしてお店の方と会話をして、「実はドライブインのことを取材してまして、よかったら今度お話を聞かせてもらえませんか」とお願いをして、3度目に訪問したときに取材をしたんです。そうやって話を聞かせてもらった半年後、バラエティ番組から出演依頼があって、どこか行きたいお店はありますかと言われたので、「なぎさドライブイン」を再訪することにして。ロケの日、お父さんは常連さんを集めてくださっていて、遅れて到着した頃にはもう宴会が始まっていたんですね。到着するなり、お父さんはカメラに向かって「俺と橋本さんは一生の付き合いだから。な、橋本さん!」とおっしゃったんです。そう言われて嬉しくなるのと同時に、びっくりして。だって、3回行っただけなんですよ。「取材したドライブインを3回ずつ訪れている」と言うと、「そんなに丁寧に取材されてんですね」なんて言ってもらえることもありますけど、たった3回なんですよ。それで「一生の付き合いだからな!」とまで言ってもらえるって、一体どういうことなんだろうと。
見汐
何だろう。この本を読んでいて思ったのは、ドライブインをされてる方たちは橋本さんのように訪れる立場でなく、ひとつの場所に留まって迎え入れる立場じゃないですか。同じ場所で日々の営みというものを粛々と営んでいる側からすると、何度も足を運んでくれる人って憶えるし、興味が湧くと思うんです。母の店で過ごしていたときも、何度も来てくれる人がいたら、「このお客さん何してる人だろう?」と思ってましたもん。
橋本
『ドライブイン探訪』は、お店の歴史を聞き書きした本でもあるんですけど、お店を営んでこられた方の半生を聞き書きした本でもあるんです。「どういうきっかけで結婚されたんですか?」とか、そういう話も聞いているから、「一生の付き合いだからな!」となるのかもなとは思っていて。
見汐
身内とも話さないような、自分の歴史を語るんですもんね。著名な人であればよくあることかもしれないですけど。毎日粛々と営みを繰り返す場所に突然取材にきてくれるって、私だったら驚きと、ありがたいなという気持ちも湧くと思いますけどね。
橋本
今日はずっと、その「なぎさドライブイン」のことを考えていたんです。というのも、今度またバラエティ番組に出演することになって、その番組は千葉出身の方がMCだということもあって、そこでも「なぎさドライブインを紹介するのはどうですか?」と推薦していたんですよね。今日の夕方、スタッフの方からメールが届いていて、「確認のために電話をしてみたら、もう閉店されたみたいです」と書かれていて。『ドライブイン探訪』を出版する前にすべてのお店に電話をかけて、その段階ではまだ営業を続けていると知っていたから、そんなはずないと思ってすぐに電話をかけたんです。そうするとすぐにお店のお母さんが出てくれて、「そうなのよ、もう閉店しちゃったのよ」とおっしゃって。理由を尋ねると、「2月に入ってすぐ、主人が急になくなって、ひとりじゃ続けていくのは無理だから、もう閉めることにしたんです」と。1年前に「一生の付き合いだからな!」と言われたのが最後になって、そのあと「なぎさドライブイン」行けてなかったんですよ。取材したドライブインのうち、ほとんどのお店には出版社から献本してもらっていたんですけど、「なぎさドライブイン」と「ドライブイン扶桑」は比較的近くにあるのと、「一生の付き合いだからな!」と言ってもらったお店には直接渡しに行かなければと思って、本を送ってなかったんです。でも、渡せないままになってしまったんだなっていうことを、今日はずっと考えてました。
見汐
会いたい人にはね、すぐに会いに行ったほうがいいんだよ。場所もそうだけど、人も永遠じゃないんだもんね。
人生は「 あっという間」?
橋本
ドライブインで「一生の付き合いだからな!」と言われたことは、結構僕の中に残り続けていて、そう言われたからには「取材が終わったからもう行きません」では済ませられないなと思うんですよね。結局、行けないままになった僕が言っても、全然説得力はありませんけど、それでもそう思ったんです。人の心に触れてしまうことって、それぐらいの大きなことだな、と。さっき見汐さんに「どこかのタイミングで愕然としなかったんですか?」と聞いていたのも、それがあるからなんです。歌っていうものには、そうやって人の心に触れてしまう力がすごく詰まっているな、と。
見汐
自分がライブを観に行ったりしていると、音楽の場合は突然懐にグイッと入ってくる瞬間があるなと思うんですが。映画や本というのは、自分から観ようとしたり読もうとしたりしなきゃいけないけど、音楽は瞬間的に深くまっすぐ感性に刺さることがあるから、すごいものだなと思うんです。話が少し戻りますけど、「リンゴの唄」を聴いて皆が泣くっていうのは、私の歌を聴いて泣いてるんじゃなくて、その歌がきっかけで思い出すことがあるんだろうなと思います。
橋本
歌にはそういう強さがありますよね。一曲っていう短い単位に詰まっているものもありますし、もっと短く、あるワンフレーズを偶然耳にしただけで思い出されてしまうものがある。歌にはそういう持ち運びやすさがありますよね。それに比べると、本はやっぱり重くて、まずは「これを読んでみよう」と手にとってもらう必要があって、冒頭から順に文字を目で追って読んでもらう必要があって、何か一つの感慨を届けるまでに受け手に労力を払ってもらう必要があって。でも、歌は能動的に聴こうとしなくても、偶然ラジオから流れてきたり、街角で流れてきたりすることで、「ああ、この曲」って思う瞬間もあるじゃないですか。あの持ち運びやすさと、その一瞬で何かに触れることができる強さがあるなと思うんです。
見汐
それは自分がやっているときにも思いますし、人様のライブを聴いているときにも思います。どのタイミングでその曲に出会ったかによって、その曲を聴いたときに甦ってくるものは各々違うんだけど、音楽にはそういうすごさがあると思います。
橋本
音楽って、もちろんすごく長い曲もありますけど、4分か5分くらいのものがすごく多いですよね。その、5分なら5分にすべてを詰めるってこともすごいなと思うんです。特に歌謡曲であれば、誰かの人生や感慨が数分間に凝縮して詰め込まれていて、その詰め込まれ方がすごいな、と。それはドライブイン巡りをしていても感じるもので、ドライブインは60年代に創業されたお店も多いんですけど、そうすると半世紀近く続いてるわけですよね。そこで「この半世紀って、どんな時間でしたか?」と質問すると、皆さん「あっという間でした」とおっしゃることが多くて。それは僕の質問が誘導してしまっているところもあるのかもしれないですけど、僕からすると、50年って時間は途方もないものに感じられるんですよ。実際、そこには途方もない時間があって、途方もないほどいろんな出来事があったと思うんです。でも、それは括弧に入れて、「あっという間でした」と答えてらっしゃるんだと思うんですよね。その言葉の裏には、何かこう、「人生ってそういうものでしょう」という達観がある気がして。もちろんいろんな出来事があったけれど、それを語りだせばきりがないし、人生っていうのはそういうものだ、と。その達観と、数分間に何かを凝縮して歌にするってことはとても近いことであるような気がするんです。
見汐
何でしょうね。たとえば自分の人生について取材されて、「今まで何十年生きてきて、どうでした?」と聞かれたら、「あっという間でした」ってなりませんか? 日々いろんなことがあるけど、それは自分が望む望まないにかかわらず、「おぎゃあ」と産まれてきて、産まれてきたからには生きていかなきゃいけなくて、そのなかでいろんなことがあるでしょう? そうしたら、私はもう、「あっという間でした」としか言えないと思ってしまう。
橋本
そのことを考えると、自分はまだ子供なのかもしれないなといつも思うんですよね。「あっという間でした」と言うふんぎりがつかなくて、過去に撮った写真とかを見返しながら、「このときはこうでね」と事細かく言ってしまう気がするんです。でも、見汐さんのライブを観るたびに圧倒されていたのもそこで、「この人はきっと、『あっという間でした』と答えるだろうな」と思っていたんです。ほとんど話したこともないからパーソナリティは全然知らないですし、ライブで歌っている姿しか知らないから勝手な想像に過ぎないですけど、そう答えるだろうなとずっと思っていたんです。見汐さんは、ご自身で作られた歌だけじゃなくて、誰かの歌をライブで歌うことも多々ありますよね。たとえば江利チエミさんの「わたしの人生」という歌も時々歌われてますけど、あの歌詞にもすごくあっけらかんとしたものを感じるんです。そんなふうにあっけらかんとした態度に至れるのは一体どういうことだろうと、ドライブインを巡っているときにも、見汐さんの歌を聴いているときにも感じていたんですよね。
見汐
基本的に「死ぬまで生きる」ってことしか考えてないからですかね。この世に生を受けること自体自分の意思とはまったく関係のないことじゃないですか。あるときから自意識というものが芽生えて、逡巡しながら暮らしていろんなことがありますけど、過ぎてしまえばないものなんですよ。いくつで死ぬかはわからないけれど、最後は皆死ぬじゃないですか。等しく死ぬんです。そのとき自分が何を思い出すだろうって、酒場で友達と話したことがあるんですね。私はきっと、「大きい風呂敷で経た時間すべてを包んでいるけれど、風呂敷を広げて見てもその中には何もない」ってことしか思わないと思うんですよね。そう話したら、「いや、何かあるでしょ」と言われたんですけど、でもやっぱり、等しく何もないと思うんです。もちろん実際にはいろんな出来事があるし、自分がこの世からいなくなっても自分の作った曲は残るかもしれないけど、生きているうちに見聞きするすべてはその瞬間瞬間で完結するものだと思うので。「何かがあった」ということを包む風呂敷が残るだけで、その風呂敷を広げたら何もないと思う。
無名な時間を書き綴る
橋本
そこで不思議なことが一つあるんですよね。見汐さんは「寿司日記」というブログや、「寿司日乗」という日記を書かれてますよね。そこでは日々の出来事や、日々感じたことを書き綴られてますよね。これは別に、「どういうことだ」と批判してるわけじゃないんですけど、「風呂敷を開くとからっぽ」だと思っているとすれば、何も記録しないってことになりそうな気がするんですよね。
見汐
そうですね。矛盾してるんですが、風呂敷を開いてしまうとからっぽなんだけど、瞬間瞬間で完結するものの中に、強烈に残っている場面があって。友達の笑顔だったり、誰かの後ろ姿だったり、なんでもないことなんですが、人生の中で要所要所にあって、そういうものは記しておきたいと思うんですよね。それは自分で読み返すためにつけはじめたもので、何もないんだけれども、何かがあったことは記しておきたくて。それが未来に対して何かになるわけではないから、結局のところ無駄なんですけど、ただ印象に残っている場面をかいつまんでスクラップする感覚というか、それをやっているんだと思います。
橋本
僕がドライブインを取材してることも、「そこに何かがあった」ということを書き残しておきたいと思って始めたことなんです。そこで記録しているのは僕自身の人生ではないから、「記録したところで無駄なんですけどね」とは言えないですけど、「それを記録してどうするの?」と言われると答えに困るところはあって。『月刊ドライブイン』を作っていたときは、「このお店に話を聞かせてもらいたい」と思ったら、まずは普通にお客さんとして食事をして、何時間か居座って飲み食いし続けて、少し打ち解けたところで「実はこういう雑誌を作ってまして……」と切り出していたんですね。そこで取材を引き受けてくださったお店があったおかげで『ドライブイン探訪』という本を出版できたわけですけど、取材という言葉を出した瞬間に、それまでにこやかに対応してくださっていたのに表情が曇って、「さっさと帰ってくれ」と言われたこともあるんです。そこまで拒絶されなくとも、「このままひっそり消えていくつもりですから、取材は結構です」と言われることも多かったんですね。そう言われたときに改めて感じたのは、取材するって、すごく余計なお世話でもあるなということで。
見汐
断る側からするとほんとに余計なことなんだろうね。普通に暮らしているだけだもんね。
橋本
そうやって考えると、一体何をやってるんだろうなと思うこともあるんです。そういうことを考えるたびに思い返すのが、川端康成の「雪国」に登場する一節で。主人公の島村が、駒子という女性が、「十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなった」という話を知る場面が出てくるんですよね。その雑記帳に書き留められているのは小説の感想ではなくて、「題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのもの」しか書いていないと駒子が言うと、「そんなものを書き止めといたって、しょうがないじゃないか」「徒労だね」と島村が言うんです。僕が何かを書き記していることも、ある視点から見れば、まったくの徒労でしかないかもしれないなと思うんです。そうなってくると、「自分は一体何をやっているんだろう?」と。
見汐
もう、その連続ですよ。この何十年、「何をやっているんだろう?」の繰り返しです。20代のときは「真面目にやることやって年を経れば何者かになれるんだ」と思ってましたけど、そんなことはないんだなと今は思うし。何者にもなれずに死んでいくんだなと。
橋本
お店を経営されている方にも、「何者かになってやろう」という思いで経営されている方もいらっしゃると思うんですね。というか、そういうものだと思っていたんです。就職してサラリーマンになるのではなくて、自分でお店を創業されるからには、そこにきっかけや動機や目標があって始めているのだろう、と。でも、ドライブインで話を伺っていると、「あの時代はドライブインが流行ってたんだよ」とか、「特に理由はないけど、この道路にクルマが走るようになってきたから、ドライブインでもやってみるかって始めたんだよ」とかおっしゃる方が多くて、すごく粛々と営んでこられた感じがしたんですよね。
見汐
私はお酒を飲むのも、酒場という場所も好きでよく行くんですけど、上野に「多古久」という100年以上やっているおでん屋さんがあるんですね。そこで「100年ってすごいですね」と伝えたら、「たまたま100年続いてるだけだよ」と言われたことがあって。その時、ふと思ったのは、当たり前のように普通に過ごしている一日って、無名なものなんだなと。これは『ドライブイン探訪』を読んでも思ったことですけど、その無名な時間というものは、めちゃくちゃ尊いなと思ったんです。わざわざ遠いところまで、何遍も足を運んで取材して――「変な人だねえ」って言われてたと思いますよ。
橋本
そうですね。それは言われていたと思います。
見汐
身内でもなく、常連さんでもなく、よその人が興味を持ってきてくれる。それは一つの新しい目線じゃないですか。自分の日々の中にはない目線を持つ人が、違う角度から自分の生活を可視化されたものに変えてくれる。読んでいて泣いてしまう箇所もありました。
橋本
『ドライブイン探訪』で取り上げた22軒というのは、帯にあるように「戦後のあゆみ」を描くために選んだものではあるんです。でも、それだけではなくて、普通にお店を営んでいる普通の時間をどうにか言葉にできないかってことはずっと考えていて。僕もお酒を飲むのは好きで、よく行く酒場がいくつかあるんですけど、そのうちの1軒は見汐さんもよくいらしているお店で。それは新宿の思い出横丁にあるお店なんですけど、たとえば思い出横丁という場所を取材して雑誌の記事にしようとすると、「懐かしの」だとか「レトロ」だとか「人情」だとか、どうしてもゴテゴテとした形容詞をあれこれつけてしまうことになりがちだと思うんですよね。でも、そうやって言葉で装飾することは、自分がその場所を好ましく思っている理由とは真逆のことであるように思うんです。でも、ただ普通のことを普通に書き綴るのでは誰かに届きづらい部分もあるので、どうすれば言葉にして届けることができるのかってことは、ドライブインを取材しながらずっと考えてましたね。
あるうちに書くか、 なくなって書くか
橋本
見汐さんは歌を歌うこと、曲を作ることを生業とされてますよね。その一方で、ブログをはじめとして、文章を書かれることもありますよね。自分が普段感じていることと、それを言葉にすることのあいだにはどんな段階があるんですか?
見汐
文章を書くという行為と、歌詞を書くという行為は自分の中ではまったく違うもので。以前山本精一さん(1986年から2001年まで「BOREDOMS」に参加し、プレイヤー/ソングライター/コンポーザー/プロデューサーとしてワールドワイドに活動を展開)と雑誌で対談させていただいたときに言い得て妙だなと思ったことがあって。山本さんは「歌詞を書くのは落ち穂拾いと一緒だ」とおっしゃっていて。なるほどなぁと思ったんですが。歌詞は「よし、書くぞ!」というよりも、たくさん転がっているものの中から自分が何かを引き当ててて、それを羅列していく作業で、文章を書くという行為はもう少し自分の生活に密着していて、一日の中にハイライトってあると思うんです。何でもないような一日の中にも、何かあると思うんですよね。自分の中で強く印象に残ったハイライトの中に何か大切な、本質的なものがある気がして。文章を書くのは、それを可視化する作業なんだと思います。本質的なものってそういうなんでもないことの中にこそこぼれ落ちるぐらいたくさんあるような気がしていて、自分の場合は一度文章にしてみないとわからないことが多々あるので、続けているだけなんですけど。
橋本
その、歌詞にすることと文章にすることの違いについてもう少し伺いたくて。たとえば、見汐さんが作った「歌女夜曲」という曲がありますよね。この曲は、さきほど話に出たおばあさまから見汐さんが伺っていた話があって、その話をもとに作られた曲ですよね。誰かから聞いた話や、自分の目の前にある話があって、それを歌という形にするのはどういうことなんでしょう?
見汐
なんでしょうね。歌詞に関しては、フィクションを連ねることで見えてくる真実が――事実ではなく真実というものがあると思っていて。事実というのは、日々の連続ですよね。今ここにいることも事実だし、今日こうやって話したことも事実ですけど、それと等しいものではないのが真実だと思うんです。曲を聴くときって、それがフィクションかノンフィクションかなんて考えずに聴きますよね。映画やドラマになると、フィクションかノンフィクションかを先に謳うものが多いですけど、音楽だと全然そういうことがなくて、歌の中には真実がたくさんちりばめられていると思います。
橋本
そう考えたときに、どこに真実を見出すかが気になるんですよね。『ドライブイン探訪』であれば全国に残るドライブインを取材しましたけど、次に出版する『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』という本であれば、6月に建て替え工事を迎える第一牧志公設市場周辺の風景を書き留めようと思って、取材を始めた本なんです。それはいずれも「今そこにある風景を書き記したい」ということで取材したんですけど、僕がすべての風景を記録しようとしているかというと、そんなことはないわけです。このトークイベントが始まる前に、見汐さんが「この通りは、昔はこんな通りでね」と話してくれたじゃないですか。その話を「そうだったんだ」と聞きながらも、じゃあ僕がこの通りの昔と今を取材するかというと、そうではなくて。それは別に、この通りには関心がないってことではなくて、気になっていることがあっても、すべてに目を向けることはどうしてもできなくて、見送ってしまうことがたくさんあるんですよね。そうすると、何を選ぶのかってことになってくるんだと思いますけど、見汐さんがおばあさまから伺っていた話はきっとたくさんあるなかで、その中から何かを選んで言葉にする作業がわるわけですよね。
見汐
ちょっと話が変わるかもしれないですけど、自分が暮らしている街の中で、「あれ、ここ、急に空き地になってる」って場所があるんですよ。そこに何があったか思い出そうとしても、あまりにも当たり前にあったものだから、すぐに思い出せないわけですよ。あるいは、よく行っていたお肉屋さんとか花屋さんとか八百屋さんが、「何十年やってきましたが、この日をもってやめさせていただきます」という貼り紙を出して閉店することもあって。何十年もやってきたのに、貼り紙一枚で終わるのかと思うわけですよ。そういうのを見るたびに――歌にしたおばあちゃんの話もそうですけど、自分がピンポイントで反応したものは、形にしたいと思うんです。それは私のタチだと思います。ただそれだけ。皆さんが暮らしている街の中にも、急に空き地になっている場所ってあると思うんですけど、「ここ、何だったっけ?」と思い出そうとする行為のほうに私は興味があるというか。だから逆に、『ドライブイン探訪』みたいに、ずっとそこにあるものに対して取材されることのほうが、とっても勇気のいることだと思います。
橋本
取材したお店について書くときも、当たり前ながらかなり気を遣っていたんです。なかなか大変な環境の中を生きてこられた方がいたとして、でも、関係する方たちがまだご存命であると、それをストレートに言葉にすると差し障りがあるだろうなと思うんです。でも、その苦労をなかったことにはしたくないから、じっくり読んでもらうと伝わるように書いていて。たしかに、おっしゃる通り、まだそこにあるものを書こうとすると書きづらいこともあるんですけど、すべてが終わったあとで書くのはどうしても嫌なんですよね。文章にするということは、その文章を書いているその瞬間よりも未来にいる誰かに読まれることを前提としているわけですよね。そうやって未来を意識すると、いつかそれがなくなる日のことも意識してしまうから、だったらまだ目の前にあるうちに書いておきたいんだと思います。
見汐
それ、すごいよね。私は「あるときはただあればいい」と思うから、自分が生きているあいだのことは、そっとしておいてほしい。
橋本
そういう気持ちもわからないではないから、いつも「取材するというのは、余計なことをしているな」と思ってます。
見汐
いや、自分はやらないってだけで、テレビなんかでもドキュメンタリーなんかを観るのは大好きだから、余計なことだとは思わないです。ただ「すごいな」と思って。
日々をやり過ごす
橋本
昨日は福岡から佐賀のドライブイン巡りをして、虹ノ松原の近くにある「ドライブイン鏡山」というお店にもお邪魔したんですね。
見汐
ああ、うちの地元ね。鏡山は皆が遠足に行くところです。
橋本
そこには展望台があって、虹ノ松原と海が一望できたんです。その展望台の近くに巨大な像が立っていて、一体何だろうと思って近づいてみると「松浦佐用姫」と書かれていたんですけど、すごくなんとも言えない表情を浮かべていて。近くにあった説明書きを読むと、佐用姫はある男性と恋に落ちたものの、相手の男性が出征のためにはなればなれになってしまって、佐用姫は鏡山の山頂から舟を見送って、七日七晩泣き続けて――。
見汐
石になった、と。
橋本
その、「石になる」ってことに置き換えられるのが面白いなと思ったんです。ドライブインはちょっとした名所・旧跡の近くにあることも多くて、言い伝えが残る場所もちらほら見てきたんですけど、そういう伝説はなにかと石になりがちだな、と。それはつまり、強い思いが残り続けたってことを、硬くて風化しづらい「石」というものになぞらえたんだと思うんですけど、それが興味深くて。それで言うと、歌っていうものにも、「石」に近い何かを感じるんですよね。自分の気持ちであれ、誰かの気持ちであれ、それを短い言葉に詰め込んで、タイムカプセルのように閉じ込める。ずっと昔の人の感情が詠み込まれて、それが現代にいたるまで引き継がれてきた短歌も「歌」ですよね。そうやって焼き付ける作業って、すごいことだなと思うんです。
見汐
どうなんでしょうね……。今、noteというサイトで「寿司日乗」という日記をつけてるんですけど、始めてみてわかったのは一日の終わりに日記をつけるって、めちゃくちゃしんどいんです。今日はこんな事がありましたって事だけを綴っているはずなのにいつの間にかその日の自分を反芻して、自己解決しようとして、こんなん毎日やってたら吐きそうと思ったんですよね。だから、日記をつけ始めたことで、「なんとなくやり過ごすのが日常だ」ってことがよくわかったというか、振り返って「あのときはああだった」というぐらいがちょうどいい温度で、毎日のことを一日の終わりに振り返っていたら身が持たないと思ったんです。ドライブインをやってこられた方たちが50年を振り返って「あっという間だった」と言うのも、そう思わないと続けてこれなかったというのもあるんじゃないかと。取材をしていく中で相手の方が口をつぐまれる瞬間とか、無言になる数秒が幾度かあったりしました?
橋本
口をつぐまれるということはなかったですね。やっぱり、取材する相手の方に、「自分の人生はこれでよかったんだろうか?」と思わせる聞き方はできないですよね。ただ、そういう芯の部分に触れる瞬間はあって、そういうときは口をつぐまれるというよりも、言葉のトーンがとても強くなる方もいらしたんです。トーンの強さということで思い出されるのは、戦争を体験された方たちの言葉で。ここ数年は何度となく沖縄を再訪していて、明日からも沖縄に行くんですけど、沖縄戦を体験された方が当時のことを語られると、やはりトーンが強いんです。あるいは、僕は広島出身で、祖母は被曝してるんですけど、祖母が戦争のときのことを話すときも、やっぱりトーンが強くて。それはきっと、そのときのことが強烈に焼きついていて、そのときのことを繰り返し思い返していて、そのときのことについて考えてきた言葉があるから、強くなっていくんだと思うんです。それは戦争まで遡らなくても、ここ数年で水害に遭われたドライブインを取材したときも、とてもトーンが強かったんですね。その強い記憶を受け取ったときに、自分はどうするかということはずっと考えてました。その強さを、僕がそのまま受け取って、代弁するように文章にすることだってできるけど、それはやってはいけないことだなと。
見汐
この本の中では、橋本さんが取材して感じたことは必要以上に書かれてなくて、事実だけを綴ってますよね。改めてとても面白かったです。
ただ それだけのこと
橋本
今の話と重なることとして、今日は聞いておきたかったことがあるんです。見汐さんが2017年3月から開催されてきた「うたう見汐麻衣」という企画は、平岡精二さんという方が作られた曲を歌うことを一つの軸とするライブですよね。見汐さんは『ひきがたり』というCDもシリーズでリリースされていて、そこにはご自身の歌だけでなく、誰かの歌も歌われています。それで、今回のイベントの告知に向けて、書店の方から「見汐さんの肩書きは」という話が出たときに、よく使われる肩書きとしてシンガーソングライターというのがありますけど、見汐さんはシンガーソングライターという肩書きを使われませんでしたよね。
見汐
紹介されるときに、一番言われるのはSSW(シンガーソングライター)です。でも、そう言われるたびに「いや、違うんだよな」というのがあって。まあそんなことは私の気持ちの問題であって、人様からすれば何でもいいことですよ。ただ、いつまでたってもしっくりこないというのがあるだけで。
橋本
見汐さんはおぼえてらっしゃらないかもしれませんけど、いつだかの「うたう見汐麻衣」のあとに、僕がそそくさと帰ろうとしていると、見汐さんが話しかけてくれたときがあって。そこで僕が「僕の中ではもう、安室奈美恵か見汐麻衣なんです」という話をして。
見汐
おぼえてますよ。「なんてことを言う人なんだ」と思いましたよ。「酔っ払ってるのかな?」と。
橋本
酔っ払っていたのは確かですけど、酔った勢いでいい加減なことを言ったわけではなくて。もうすぐ終わる平成という時代を振り返ると、シンガーソングライターと呼ばれる方が大勢登場した時代で、「私」が溢れた時代だったなという気がするんです。ただ、見汐さんの場合、「私」という容器にこだわっていない感じがすごくあって。安室さんも、数曲だけ自分で作詞されてますけど、あとは誰かが書いた言葉を「私」として歌っているんですよね。
見汐
安室奈美恵さんは私のような端くれ者からすると素晴らしいエンターテイナーであり、芸能人なので、まったく違うと思いますけど、私の場合、バンドもやっていますけど、それはまたこの「うたう見汐麻衣」でやっている事とは異なるもので。邦楽に限ってですがSSWと言われる人たちの歌を聴けない時期があったんです。「私はこういう人です」「私はこういうこともできます」っていうことのほうを、歌っていることよりも先に感じてしまって、自己実現や自己表現の手段として聴こえてしまう音楽には食指が動かないっていう。歌う人自身が「私を見て!」と言っているように感じることが多くて、歌そのものをちゃんと歌えている人が昨今少ないなと思っていた時期に「円盤」の田口(史人)さんから「歌うということがどういうことかあらためてやってみる企画をやらないか」と言われて始めたのが「うたう見汐麻衣」なんです。実際やり始めて気づくことも沢山あって、自分は歌の媒介であればよくて、そこに関しては自分がどうあるべきなどということは一切ないですね。
橋本
見汐さんのライブを観ていると、そこに愕然とするんですよね。今回のタイトルである「ただそれだけのこと」というのは、見汐さんが作られた「エンドロール」という曲に登場する言葉です。ある時間に対して「ただ それだけのこと」と形容するというのは、別に投げやりに言っているわけではないと思うので、すごい腹の据わり方だなと思うんです。僕はまだそんなふうに言い切れなくて。
見汐
何でしょうね。今はもう「ただ死ぬまで生きよう」ってことしか考えてなくて。その中で、自分の作品が誰かの永い友達になってくれたら本望だなということは思いますけど。
橋本
これまでほとんど話したことがなかったのは、その腹の据わり方をうっすら感じていて、それが怖かったのもあるんだと思います。でも、今日、こうしてお話できてよかったです。
見汐
こちらこそ、ありがとうございました。『ドライブイン探訪』、まだお買い求めになってない方はぜひ買ってください。

2019/3/21@沖縄・早川倉庫 橋本倫史×青柳いづみ「わたしの声を言葉にする」『ドライブイン探訪』『いづみさん』刊行記念トークイベント

橋本
僕は2017年の春に『月刊ドライブイン』というリトルプレスを創刊して、それが1冊にまとまって、今年の1月下旬に筑摩書房から『ドライブイン探訪』として出版されました。今日ゲストにお越しいただいた女優の青柳いづみさんは、PR誌『ちくま』で「いづみさん」という連載をされていて、それは青柳さんが文章を書き、今日マチ子さんが絵を描く連載でしたけど、こちらも1冊にまとまって出版されると聞いて、2冊の本の出版を記念したトークイベントを開催できたらと、今日のトークイベントを企画したんです。
青柳
本当はここで最初に買えるようにできたらと思ってたんですけど、まだ本ができていないんです。すみません。
橋本
青柳さんも僕も、お互い東京に住んでいるので、トークをするのであれば東京でやるのが一番楽な方法ではあるんです。でも、青柳さんと東京でトークをすることに違和感があったんですよね。東京以外のどこかと考えると、真っ先に浮かんだのが沖縄で、青柳さんから「宗像堂」を紹介してもらって、今日はここで開催することになりました。
僕の『 ドライブイン探訪』は、名前の通りドライブインを取材した本ですけど、いきなり「取材させてもらえませんか」とお願いしたわけではなくて、2回、3回と再訪を重ねて、少しずつ関係を築いた上で取材したんです。そうやって再訪を繰り返すってことについて考えるきっかけになったのが、沖縄だったんですね。
僕は広島出身で、 学校の授業でも原爆の話を何度も聞きましたし、 祖母も被爆していて、 小さい頃から戦争に関する話に触れる機会は多かったんです。 それで、 沖縄には小さい頃に家族旅行できたことがあるんですけど、 ひめゆりの塔の記憶が強く残り過ぎて、 大人になってから「 旅行で沖縄に行こう」 という気持ちになれずにいて。 ただ、 今日マチ子さんがひめゆり学徒隊に着想を得て描いた『 cocoon』 という作品があって、 2013 年にマームとジプシーがその作品を舞台化することになったんですけど、 稽古開始に先駆けて、 原作者である今日マチ子さんや、 演出する藤田貴大さん、 音楽を担当する原田郁子さん、 それに出演者の皆と一緒に沖縄を巡ることになって、 その旅に僕も同行したんです。 それはちょうど6月23日で、 沖縄で組織的な戦闘が終了した日で、 平和祈念公園で開催されていた慰霊祭にも皆で参列して。 そこから戦跡を巡ったり、 海を巡ったりという時間を過ごしたときに、「 こうして一度足を運んだからには、 できる限り訪れよう」 と思うようになって、 それから6月がくるたびに沖縄を再訪してきたんです。
「あのとき、 どうして沖縄にこようと思ったんですか?」(橋本)
橋本
2013年に皆で沖縄を訪れたときは、青柳さんが立てたプランに従って皆で沖縄を巡りましたよね。
青柳
そうですね。でも、「案内してくれ」と言われたわけじゃなくて、勝手に計画を立てて、朝から晩までぎっちぎちで、「ここから目的地まで走って」とか「昼ごはんを食べる時間はなし」とか、結構きつい旅でしたね。
橋本
2日目の最初の目的地は平和祈念公園でしたけど、朝イチの段階でなぜかスケジュールが押してましたね。
青柳
それで「海まで走って!」となって、貧血で倒れちゃう人がいたりして。皆で沖縄に行くときはいつも私が勝手にプランを立てていて、そのたびに皆が大変な目に遭ってます。
橋本
それが2013年の6月でしたけど、2013年の6月と言えば、マームとジプシーは2度目となる海外公演に出ていた時期でしたよね。それは『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という長いタイトルの作品で、そこには青柳さんは出演されてないんですけど、5月にフィレンツェ公演があって、6月にはチリのサンディエゴに出かけることになって、僕もそのツアーに同行していたんですね。そのとき、ニューヨークの空港で長いトランジットがあって、バーでビールを飲みながら時間を潰していたときに、藤田さんが「そういえば今、青柳が沖縄に行っているらしいです」と言って。その時点で、6月23日から皆で沖縄に行く予定があるって話は聞いていたから、「半月後には皆で行くのに、どうして行っているんですか?」と僕が聞き返したんですけど、「いや、女優のことはわかんないです」と藤田さんは言っていて。あのとき、どうして皆でくるまえに、ひとりで沖縄にきてたんですか?
青柳
何ででしょうね。自分の意思でどこかに行こうと思うことが、ほとんどないんですよね。でも、そのときだけはそう思いました。それまで、飛行機のチケットを自分で取ったこともなかった気がします。
橋本
それ以前に沖縄にきたことってあったんですか?
青柳
一回もなかったです。
橋本
そこで青柳さんが1週間くらい沖縄に滞在して、そこで青柳さんが出会った場所を中心にして、6月23日から皆で巡ったんですよね。
青柳
私が見つけた場所だけじゃなくて、『cocoon』を描かれる前に今日さんと編集の金城さんが取材で行かれていた場所があって、その場所を色々教えてもらっていたので、まずはそこに行ってみたんです。その場所を、まずはひとりで行きたいなと思ったんでしょうね。
橋本
そのときのことっておぼえてますか?
青柳
おぼえてないです。ほんとに思い出せない。なんでこんなに忘れるんですかね。でも、おぼえてますか。6年前の今日のこととか。2013年の3月21日。
橋本
もちろん、ふいに「6年前の今日、何をしてましたか?」と聞かれて答えられる人はほとんどいないと思うんですけど、初めて自分から「この場所に行ってみたい」と思い立って、沖縄に足を運んで、今も繰り返し訪れているわけですよね。そうだとすれば、事細かにおぼえていないとしても、何かしら断片的な記憶は残っている気がするんです。でも、青柳さんはびっくりするくらい「おぼえてない」と言いますよね。あれだけ膨大な台詞を自分の中に入れて舞台上で発語する人が、そんなにおぼえてないものかと、いつも不思議に思うんです。
青柳
みんなそうだと思うけど、お芝居も、終わった日に台詞は忘れます。でも、最初に沖縄に行った1週間ぐらいのことは、私が日記を書いて、それを読んで今日さんが絵を描いて、今日さんのホームページにも載せるっていうことをやっていたんですよね。それを読めば、何か思い出すかもしれない。そういう時間があったから、「いづみさん」っていう企画が始まったんだってことを今思い出しました。
橋本
それも今この瞬間まで忘れてたんですね。
青柳
忘れてました。その沖縄の時間があったから、『いづみさん』という本もできることになりました。
「形に残るものは全部消えて欲しいと思ってしまう」(青柳)
橋本
今日は3月21日ですけど、青柳さんは1年前の3月にも沖縄にいましたよね。川上未映子さんの詩を、藤田さんが演出して、青柳さんの一人芝居として上演する『みえるわ』という作品で全国を巡演して、沖縄では2つの会場で上演されましたけど、そのときのことだって、青柳さんはもうあんまり現実味がないんですよね、きっと。
青柳
おぼえてないです。
橋本
青柳さんは、どうしてそんなにおぼえてないんですかね?
青柳
どうして人はおぼえていられるのかっていうことのほうが、不思議。
橋本
青柳さんはよく、「1年前の私は別人です」と言いますよね。でも、観客として青柳さんのことを観ている人たちからすると、今の青柳さんは、1年前や5年前と地続きなわけで、そこで「別人です」と言い切るところが不思議だなと。ただ、一方ではわかる部分もあって、それはドライブインの取材をしていたときにも感じていたことなんです。何十年とドライブインを経営されてきた方達に話を聞くと、「この何十年を振り返ると、どんな時間でしたか」という質問をしたところで、「いやあ、あっという間だったね」という話にしかならないんですよね。それは質問のしかたが悪いというのもありますけど、その日その日に感じていたことがあるはずなんだけど、過ぎ去ってしまうとそうした感覚は消えてしまって、取り出すことができなくなってしまう。それが消え去ってしまう前に書き記しておきたいと思って、僕はマームとジプシーの同行記を書いたり、ドライブインを取材したりしてきたんです。
青柳
誰かの記憶?
橋本
そうですね。誰かの記憶を記録する。僕がマームとジプシーを観始めるきっかけとなったのは2011年4月に上演された『あ、ストレンジャー』という作品で、それは青柳さんも出演されてましたけど、それを観たことで「これは観続けなきゃな」と思ったんです。そうして作品を観ているうちに、僕は書く仕事をしているのだから、この時間のことを書き残さなければと思って、マームのドキュメントをいくつも書いてきたんですよね。今から50年後に、「あの時代にマームとジプシーがあった」と振り返って書かれることはあるでしょうけど、そうではなくて、今という時間のうちに書き残しておきたい、と。そう思い立ってツアーに同行していくつもルポを書いてきましたけど、その一方で、普段青柳さんと話していると、「自分の痕跡が残るのが嫌だ」とおっしゃいますよね?
青柳
あんまりもう、形に残りたくない。本も、出版することになりましたけど、形に残るものは全部消えて欲しいと思ってしまう。
橋本
自分の手書きの文字を見られるのも嫌なんですよね?
青柳
手書きの文字はもう、めちゃくちゃ嫌です。
橋本
それは別に、「字が下手だから見られたくない」とかではないですもんね。
青柳
そうですね。おじいちゃんが習字の先生だったから、字は上手だよ。でも手書きの文字って、なんか嫌じゃないですか? 人の手書きの文字も、その人の見てはいけない部分を見ている気がしてしまって、恥ずかしくなる。
橋本
だから「普段手書きで書かざるをえないときは、文字の演技をしてる」って、前に言ってましたよね。そこまで嫌だと感じるのは何なんでしょうね?
青柳
手書きじゃなくても、自分の何かが乗っかっている文字が形に残るのが嫌で。『いづみさん』の打ち合わせをしているときも、「日が当たっているときにしか読めないような印刷方法ってないんですか?」とか、「風が吹くと、文字が一画ずつぺりぺりぺりって剝がれて飛んでいって、白紙になる紙とかないですか?」とか、デザイナーさんに話したんですけど、「そんな紙はまだ開発されてない」と言われました。印刷されたものって、すごく残るじゃないですか。こんなに残るものは私でなくていいじゃないかって気持ちになってしまう。それはきっと、私が普段、形にならないことをやっているからだと思うんですけど。
橋本
そうですね。演劇というのは基本的に上演時間中にだけ存在しているもので、上演期間が終われば舞台美術も解体されて、もう二度と観ることができなくなる。記録映像を残すことはできるけど、それは映像でしかなくて、舞台とはやっぱり別物ですよね。でも、そう考えると、そんな青柳さんが本を出すというのはとても不思議なことですね。
青柳
演劇という表現をやっているときに、「本っていいな」といつも思ってたんですよね。本って遠くまで届くなー、と。でも、やっぱり演劇という形が好きなんでしょうね。目の前にいる人を見たいと思ってしまう。
「放っておけば消えてしまうものを書き留めたい」(橋本)
橋本
「演劇は残らないものだ」というのは、物理的な話としてはそうだけど、観客の記憶の中には残り続けるものですよね。いつか青柳さんは「この舞台を観ることのなかった人にまで届くものでありたい」と言っていましたけど、観なかった人にまで届くということは、それだけ強く誰かの中に残ったということでもありますよね。演劇というのも、そうやって遠くまで運ばれうるもので、青柳さんは紙とは違う形で残す作業をやっているとも言えますよね。
青柳
なんでそんなことやってるんでしょうね。橋本さんはなんでこの本を書いたんですか?
橋本
あの、残したいからじゃないですか。残したいというのは、別に、「自分が好きなものを残したい」とかってことではないんです。『月刊ドライブイン』を創刊してから、ときどきバラエティ番組から「ドライブインマニアとして出演してもらえませんか?」と依頼されることがあって。
青柳
出てましたよね?
橋本
出たこともありますけど、それは「僕はマニアではないんです」とお断りをして、あくまでドライブインを何十年と切り盛りされてきた方たちに話を伺ってきただけなんですと伝えて、それでも「出演してください」と言ってもらえるのであれば出演してきたんですね。なんでそんなややこしい断りを入れるのかと言うと、僕はドライブインが好きでたまならないって人間ではなくて、10年前まではドライブインに行ったことすらなかったんです。小さい頃に家族でドライブに出かけるときに立ち寄るとすれば、ファミリーレストランかマクドナルドだったので、ドライブインというものに入ったことがなくて。それが大人になって、原付で日本全国をまわるようになったときに、ふとドライブインの存在に気づいたんです。原付はひたすら一般道を走るので、注意しながら走っていると、廃墟になってしまったものも含めて膨大な数のドライブインがあったんですよね。これだけ数があるってことは、かつてドライブインの時代があったはずだと思ったんですけど、まだドライブインが現役であるうちに話を聞いてまわらないと、「ああ、昔そういうのがあったよね」で片づけられてしまう気がして。それはあまりにも残念だということで、ドライブインの取材を始めたんです。……納得してもらえました?
青柳
はい(笑)
橋本
だから、ドライブインの取材をしていることと、青柳さんに取材をしていることは僕の中で地続きなんですよね。マームのドキュメントを読んで僕のことを知ってくれた人には「橋本さんがなぜか突然昭和レトロな世界の取材を始めている」と思われているかもしれないし、『月刊ドライブイン』で知ってくれた人には「この人、なんで演劇の取材もしているんだろう?」と思われているかもしれませんけど、僕の中では同じ作業なんです。放っておけば記録されないまま消えてしまうものを、なんとか言葉に書きとどめておくっていう。
「この本には、 私の知らない『 わたし』 がたくさんいる」(青柳)
橋本
『月刊ドライブイン』を創刊してから、青柳さんには毎号手渡してましたけど、それは読んでくれてましたか?
青柳
読んでました。でも、『月刊ドライブイン』は毎回お店を2つずつ取り上げてましたけど、こうして1冊になって読むと、順番も違うし、やっぱりちょっと印象が違いますね。あと、当たり前のことですけど、この本を読むと「私の知らない『わたし』がこんなにもたくさんいる」っていうことを知るというか。
橋本
『ドライブイン探訪』に出てくるドライブインの店主たちに、青柳さんは会ったこともないけど、この本を読むと店主たちが過ごしてきた時間がぎゅっと書きとどめられていて、それに触れるとびっくりするってことですよね。
青柳
そうですね。皆「わたし」だよなと思いました。
橋本
青柳さんのことはずっと取材してきましたけど、数年前の青柳さんだったら、そんなこと思わなかったですよね、きっと。
青柳
思わなかったです。世界全部が「わたし」みたいな気持ちでした。ほんとにそう思ってたんですよね。舞台上にあるものも、一緒に出ている出演者も、観客も、劇場にあるものはすべて「わたし」みたいな気持ちだったんです。そういうふうに演劇をやってました。
橋本
すべてが「わたし」だってことは、観客の一人一人の何かまでコントロール可能だと思っていたってことですよね。
青柳
全部コントロールできると思ってました。この、今吹いている風とかでさえコントロールできると思っていたんだと思います。
橋本
でも、あるときからは「すべてがわたし」とは思わなくなって、私自身とは別個の「わたし」が世界に存在しているってことに気づいたわけですよね。そんなふうに変わっていく青柳さんを取材していたことは、ドライブインを取材することにも影響していて、そこにある「わたし」をどう書き留めるかってことをあれこれ考えるきっかけになったんです。
青柳
この本の中に、いろんな「わたし」がいますもんね。
橋本
それは、本を読み進めるなかで知らない「わたし」を発見して、びっくりするんですか?
青柳
なんか、閉じちゃう(笑)。これ、写真も載ってるから余計にそうなるのかもしれないです。載っている人たちが、皆笑顔なんですよ。良い写真だなと思って、たまらない気持ちにいつもなります。
橋本
本で取り上げたお店のことは、取材するまでに2回は訪れていて、3回目に訪れたときに2時間から3時間かけて話を聞かせてもらっているんですよね。そのあとで写真を撮らせてもらっているので、皆さん笑顔を向けてくれて。別に「笑顔でお願いします」なんて言ってるわけじゃないんですけどね。
青柳
橋本さんは絶対にそんなこと言う人じゃないよなと思うからこそ、こんなに笑顔で載っていることがすごいなと思う。
橋本
たしかに、皆さん笑顔で写ってくださって。それを嬉しく思うと同時に、「これってやっていいことなんだっけ?」とも思ってたんですよね。『ドライブイン探訪』は、お店の歴史を聞くのと同時に、お店を営んでこられた方の人生を語ってもらって、それを書き記していて。取材しているときから考えていたことではあるんですけど、「これってやっていいことなんだっけ?」というのは、時間が経てば経つほど考えます。
青柳
「これってやってよかったんだっけ?」は、演劇をしていてもいつも思います。
橋本
それは、たとえば『cocoon』という作品であれば、今日マチ子さんが着想を得るきっかけとなった人たちが実在しているので、「これってやってよかったんだっけ?」と思うかもしれないなってことを、普段舞台に立たない僕でも想像できるんです。でも、青柳さんが出ている作品の多くは、事実を元にした作品というよりも、フィクションですよね。そこで「これってやってよかったんだっけ?」となるのは何でですか?
青柳
私以外の「わたし」がいるってことに気づいたのもそういうことなんですけど、この言葉があることによって、誰かの何かが変わってしまうかもしれなくて。そんな言葉を、私以外の「わたし」に向けて言っていいんだっけと思ったんだと思います。
橋本
女優という仕事は、常にそれを行なっているわけですよね。特に青柳さんは、ある決定的な言葉を手渡されることが多いですよね。藤田さんの最近の作品は、「2時間なら2時間の上演時間はあるんだけど、言葉としてはこの一言に尽きるんだ」っていう傾向が強くなってますけど、その一言を青柳さんは託される。それを繰り返してますよね。
青柳
「これって言ってよかったんだっけ?」って絶対毎回思うのに、繰り返してます。5月に『CITY』という作品をやることが決まっていて、その作品も「この一言」っていうのが決まっているみたいで、はじめはいつも「そんなこと言えるだろうか」って思うんですよね。でも、それを言うんです。
橋本
それを繰り返すというのは、不思議な仕事ですね。
「われわれは一体、 何を繰り返してるんでしょうね?」(橋本)
橋本
今日のトークイベントは「わたしの声を言葉にする」というタイトルをつけてますけど、青柳さんがやっていることも、僕がやっていることも、アプローチは違えど「わたしの声を言葉にする」ことだと思うんですよね。ドライブインを何十年と営んでこられた方たちの言葉は、これまで記録されてこなかった「わたしの声」で、僕はICレコーダーをまわしてその声を言葉にする仕事をしていて。青柳さんは、自分自身ではない誰かとして、この世界のどこかにいる「わたし」として、舞台に立って言葉を発語する仕事をしていて――さっきから戦闘機が飛ぶたびにトークを中断してきましたけど、僕がしゃべってるときにしか飛ばないですね。
青柳
そうだよ。
橋本
でも、僕が「わたしの声を言葉にする」ってことを考え始めたきっかけというのも、沖縄だったんです。2013年にひめゆり平和祈念資料館を訪れたときに、その人がどんな人だったのかほとんど書き残されていない人や、ぼんやりした写真しか残っていない人もいて、記録されることがなかった人たちのことをすごく意識することになったんですね。青柳さんはどうですか?
青柳
沖縄にくるといつも思うけど、あんまりしゃべっちゃいけないんじゃないかとか、思うんですよね。誰かや何かを変えてしまうのが怖くて。「変えられると思ってるのかよ」ということもありますけど、何かを言葉にしてしまうことが怖しい。でも、自分以外の「わたし」がいるってことに気づいたのは、ここにいた時間があるからなんだろうなと、話してて思いました。
橋本
僕は2013年の6月に沖縄にきてから、毎年6月になると沖縄を再訪しているんです。きたところで何ができるわけでもないですけど、これるんだったらこない理由はないなと思って、毎年きてるんですね。青柳さんは青柳さんで、公演がないときでも頻繁に沖縄にきてますよね。それも、「前回行ってない場所があるから、今回はそこに行ってみよう」とかではなくて、基本的に同じ場所を巡り続けてますよね。われわれは一体、何を繰り返しているんでしょうね?
青柳
それしかできないんですけどね。でも、やっぱり、私は沖縄が好きなんだと思います。何かを好きだなんて、あんまり言わないですけど。何かを好きだと言うことに対して、「ええ?」っていう角度って絶対にあるじゃないですか。沖縄を好きだということに対しても、「ええ?」っていう目線はあると思うんです。どういう角度なのか、よくわからないけど。でも、どうしてそんなに沖縄にくるのかと言われたら、この場所がどこよりも好きだからという気持ちに、今回初めてなりました。
「人の記憶を扱うのは、 暴力といえば暴力だと思うんです」(青柳)
青柳
『ドライブイン探訪』は、全国いろんなドライブインに行かれてますけど、沖縄が2つありますね。
橋本
この本には22軒のドライブインが出てきますけど、そのうちの2軒が沖縄なので、比率としては高いですね。1軒は「A&W」で、もう1軒は本部町にある「ドライブインレストランハワイ」です。青柳さんも、「A&W」は何度か行ったことがありますよね?
青柳
ありますけど、Coccoが言うほどの気持ちにはなれてないです(*註――『ドライブイン探訪』では、「金曜とか土曜にエンダーに行ってブルーシールに行くのが、沖縄の子供が喜ぶスペシャルコースなわけよ」というCoccoの言葉が引用されてる)。私のソウルフードは、やっぱマックだから。
橋本
僕のソウルフードも、「A&W」ではなくてマックですけど、どうして沖縄を2軒取り上げることになったんだろうと考えると、やっぱり『cocoon』という作品の影響が大きいんですね。『cocoon』は、穏やかな日常があったところに戦争が起こり、砲弾が飛び交う中を駆け抜けて、最後には戦争が終わった日にたどり着くわけですよね。2013年にこの作品が舞台化されたとき、僕は1945年の沖縄にどんな日々があったのかということをひたすら調べていたんです。でも、『cocoon』が2015年に再演されたとき、ふと思ったんですよね。「戦争が終わった日から今日に到るまでに、どんな時間があったんだろう?」と。ドライブインを取材しようと思ったのも、それをたどることで、日本の戦後のあゆみのようなものが見えるんじゃないかと思ったことも大きなきっかけだったんです。沖縄には戦後というものが強く残っていて、それは今取材を進めている『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社より5月22日取次搬入予定)でも感じることなんです。
青柳
『cocoon』をやっていたときは、最後まで生き残っているのは私が演じたサンとマユだけですけど、戦争が終わる日の前と後ってことを思ってやっていたのかと言えば、そんなふうに思ってはいなくて。それは、『書を捨てよ町へ出よう』のときに藤田君と話したことにも近いですね。
橋本
『書を捨てよ町へ出よう』で青柳さんが演じたのは「せつこ」という登場人物で、主人公である「わたし」の妹でした。お父さんは戦争帰りで、しばらく屋台ラーメン屋をやっていたけど今は無職で、おばあちゃんは万引きの常習犯という家族です。「わたし」は同年代のように大学に行くことも叶わなくて、大学に潜り込んで、「近江」という先輩に出会うわけですよね。その近江から進歩的な考え方を色々聞かされて、兄である「わたし」は、どうして自分が今のような状況に置かれているのか、うっすらわかっている。でも、それに対して妹の「せつこ」はと言うと、自分が置かれている状況を俯瞰できているわけではなくて、ただ何かに巻き込まれるようにして悲惨な状況に追い込まれていくという。
青柳
それと同じように、『cocoon』をやっているときも、わけがわからないまま自分のまわりが変化してしまって――なんでしょうね。そこには何か絶対にあるんですけど、それを説明する力は私にはなくて。それで言うと、『cocoon』をやっていたときに、その人たちのことを想像しているわけではないんですよね。「こういうことがあったんだろうな」と想像しているわけではないし、そういうことをしてしまうのは失礼なことだと思っていた気がします。
橋本
以前、川上未映子さんが登壇されるトークイベントを聞きに行ったとき、「今この瞬間にも拷問を受けている人はいるかもしれないし、すごく酷い目に遭っている人もいると思う」「でも、そこで『絶対に今、このシチュエーションは存在していないはずだ』というものを探すことが希望だ」とおっしゃっていて、その言葉が僕の中に刻み込まれているんです。それは、すごくわかるし、それこそが想像力のあるべき姿だと思ったんですよね。
たとえば、僕がドライブインを巡っているときに、お店の佇まいを目にしただけで感じるものはあるんですよ。たとえば古くなった漫画のポスターが貼られているのを目にすると、「ああ、お子さんが好きだった漫画のポスターをずっと貼っているんだろうな」と想像することはできるわけです。でも、それは想像で終わらせてはいけないことだと思うんです。実際に話を聞くことができるんだから。調べたり尋ねたりすればわかることを、その過程をサボるために「想像する」って言葉を用いるのではなくて、もっとありえたかもしれない何かを考えるために「想像する」って言葉は使われるべきだと思うんです。今の青柳さんの話もそれに近いことだと思っていて、「実際にこういう現実があったから、それを再現するように作品化する」のではなくて、もっと違う作業だと思うんですよね。それは、もっと違う次元のことだと思うんですよね。
青柳
どうなんでしょうね。暴力といえば暴力ですよね。そうやって人の記憶を扱うってことは、暴力だと思うんです。ただ、『cocoon』に関して言うと、何度も沖縄を巡ったことで、そこで触れたものは結果的に反映されているとは思うけど、作品は作品だから、誰かの記憶で作ったものではないんだと思います。
「青柳さん自身は、 ドキュメントに書き記されるのは平気なんですか?」(橋本)
橋本
さっき、「自分の痕跡が残るのが嫌だ」という話がありましたよね。僕はドキュメントを書き残す仕事をしていて、青柳さんのことも書き記してますけど、それは平気なんですか?
青柳
もう、しゃあないよな。しゃあないし、それは私の声ではなくて、橋本さんが書いたものだと思います。
橋本
ただ、ドキュメントを書き残すとき、青柳さんには事前にチェックをしてもらってますけど、結構直しますよね?
青柳
めちゃくちゃ直します。
橋本
僕は書き残す側ですけど、書き残される側はどういう感覚なんだろうって、いつも思うんです。ドライブインの場合、取材したお店の方に「書き残されるって、どういう感じがするものですか?」と聞くのは憚られるので聞いたことがないんですけど、青柳さんになら聞けるなと。
青柳
ドライブインの方から「ちょっと、ここの台詞を直して」とかあったんですか?
橋本
ドライブインのときは、「話したことに誤りがあった」という修正はありましたけど、それ以外の修正はなかったですね。でも、今やっている『市場界隈』だと、「ここはカットして欲しい」という話がちょこちょこありました。それは自分の言いまわしを直すとかっていうよりも、「こういう言い方が残ると、誤解する人がいるかもしれない」っていうことでしたけど。
青柳
私が直しているのは語尾とか、ほんとに細かいところですよね。
橋本
そうですね。語尾は大抵直されるので、「いい加減おぼえろや」って自分自身に対して思います。
青柳
ああ、私が好きな語尾を?
橋本
そう。でも、どういう語尾がしっくりくるのか、青柳さんの中でもその時々で変わりますよね?
青柳
変わってます。あと、「、」の置き場所も変えますね。自分がしゃべるとき、「、」の位置って大事なんです。でも、しゃべっているときと同じ位置に「、」があるとズレるんですよね。「、」が大事だと思ってしまう。
橋本
語られた言葉を構成して、それを本人にチェックしてもらうと、内容を修正されることが多い気がするんですよね。「たしかにこのときはこう答えたけど、これは語弊がある」とか、「これは言い過ぎたから削る」とか。でも、青柳さんの場合はそうではなくて、自分がその瞬間にしゃべったことと、それが文字になることのあいだにギャップがあるんだろうなと。
青柳
ありますね。橋本さんに聞かれたからこうしゃべっているだけで、それを人に知られるのは恥ずかしいとか、そういうこともあって語尾を変えたりするんでしょうね。
「本が出ることを、 私も本当は楽しみにしてると思います」(青柳)
橋本
話せば話すほど、そんな青柳さんが本を出すってことに至ったことが不思議に思えますね。でも、出ることは決まっているんですよね。
青柳
はい。5月に出ます。
橋本
『ドライブイン探訪』の出版に向けた作業をしているとき、「ドライブインは記録されるべきだ」と思っていたので、どこかちょっと不遜な気持ちでいたんですね。「それは本になるでしょう」と。でも、物として届いて手に取ったときに、すごく嬉しかったんですよね。でも、青柳さんはそんなに喜ばなそうですね。
青柳
でも、私も本当は楽しみにしてると思います。残したいって思うほうの自分は楽しみにしてると思う。
橋本
ああ、なるほど。ようやくわかった気がします。青柳さんは前に、誕生日が嫌いだって話をされてましたよね。その話を聞いたとき、「そんな人っているんだ?」とびっくりしたんですね。僕は、誰かに祝われたいって気持ちはゼロなんですけど、誕生日はとても特別な日だと思っていて。街で傍若無人な振る舞いをしている人がいたとしても、その日が誕生日であれば「許す」と思えるぐらい、特別な日だと思っていて。だから「誕生日が嫌いだ」って聞いたときに驚いたんですけど、それはつまり、好き過ぎて嫌いだってことでしたよね。
青柳
はい。クリスマスも、本当は大好きだから嫌いです。「本当のクリスマスがあるんじゃないか」とか、「本当の誕生日はこうじゃないんじゃないか」とか、そういうふうに思ってしまうから「嫌い」と思ってしまうんですよね。
橋本
じゃあ、『いづみさん』が出ることを楽しみにしている青柳さんもいるんですね。
青柳
そうですね。今の段階の原稿だと、まだ「これは本当の姿じゃないんじゃないか」と思ってしまうから、嫌だと思ってしまう自分がいるんだと思います。
橋本
僕は一度書き終えると、そんなに大幅には書き直さないんですよね。だから、今日この会場にくるまで話していたときに、『いづみさん』の発売が延期になったという話を聞いて、それと同時に「発売が延びたんだから、まだ直せるよな」と編集者に言ったと聞いて、びっくりしたんです。まだ直したいと思うんだ、って。青柳さんの中には理想的な状態があって、まだそこに至れていないから「嫌だ」と思ったり「まだ直したい」と思うんでしょうね。
青柳
演劇は「今」っていう瞬間のもので、普段はそれしかやっていないから、本もぎりぎりまで「今」にしたいんですよね。でも、本になった段階でそれはもう「今」じゃないから、何をやっても遅いんだってことに、さっき話していて気づきました。

青柳いづみ出演『CITY』公演情報

『CITY』
作・演出:藤田貴大
出演:柳楽優弥 井之脇海 宮沢氷魚 青柳いづみ /
菊池明明 佐々木美奈 石井亮介 尾野島慎太朗 辻本達也 中島広隆 波佐谷聡 船津健太 山本直寛 /
内田健司(さいたま・ネクストシアター) 續木淳平(さいたま・ネクストシアター)
<埼玉公演>
会場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
日程:2019年5月18日(土)〜26日(日)
公式サイト
<兵庫公演>
会場:兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
日程:2019年5月29日(水)
<豊橋公演>
会場:穂の国とよはし芸術劇場 PLAT主ホール
日程:2019年6月1日(土)〜2日(日)

2019/03/17@早川倉庫 橋本倫史×藤田貴大「町に残る、町を出る」熊本・早川倉庫 対談トークイベント

橋本
『ドライブイン探訪』刊行記念トークイベント、これまでに3本開催してきたんですけど、一つ前にやったのは東京・荻窪にある「Title」という本屋さんだったんです。トークが終わったあと、駅前にある焼き鳥屋さんで飲んでたんですけど、「そういえば昔、ここで飲んだことあるな」と思い出して。今日は3月17日ですけど、藤田さんと初めて会ったのは8年前の昨日で、荻窪にあるその焼き鳥屋さんで飲んだんですよね。
藤田
そうですね。……橋本さんは日付や場所をおぼえまくってるから、「これも何かに繫がってしまうんじゃないか」という恐怖に苛まれるんです(笑)
橋本
恐怖?(笑)
藤田
いや、「あのときの荻窪があったから、今日は荻窪なのか」とか、「あのときが3月だったから3月なのか」とか、そういうことを考えながら言葉を口にしていかなくちゃいけないところがあって。まず、そのパソコンが怖いんですよ。そのパソコンにいろんな記録が残ってるから。
橋本
つい最近まで、藤田さんが主宰されている演劇カンパニー・マームとジプシーはフィレンツェで滞在制作を行なっていて、僕もその旅に同行してドキュメントを書いていたんです。フィレンツェは2度目の滞在で、最初の滞在のときも僕は同行してたから、街を歩いているときに僕がパソコンを開いて「ああ、やっぱりこのスーパーには6年前も来てますよ!」と写真を見せて、皆に引かれるっていうことがありましたね。
藤田
いや、だって、スーパーですよ?(笑)
橋本
こういうことを言うとまた「怖い」と言われてしまいそうだけど、藤田さんの作品を最初に観たのは2011年ですけど、僕がドライブインを巡り始めたのも2011年だったんです。ドライブインを巡りながら、藤田さんの作品が上演されるときはいつも拝見して、そこで考えてきたことがあるからトークのゲストをお願いしたんです。『ドライブイン探訪』は『月刊ドライブイン』というリトルプレスが元になったものですけど、そのリトルプレスのときから藤田さんに手渡してましたよね。
藤田
そのときはこんなに厚い本ではなくて、1号に2話入っている薄い冊子だったので、ツアーに出るときは鞄に入れて旅してたんです。それが1冊の本になって、むちゃくちゃ嬉しいんですけど、この本はとにかく読んでて疲れるんですよ。
橋本
疲れる?
藤田
まえがきにも書かれてますけど、1軒のお店を3回は訪れているわけですよね。飄々と書いている感じだけど、そこにものすごく膨大な時間と距離があるってことを本という空間の中から感じてしまうので、ものすごく疲れるんです。でも、そうやって時間と距離を費やしてツアーをしていくというのは僕にとっても大きな仕事でもあるんだけど、それを橋本さんはいよいよこういうふうに言葉にしちゃったんだなっていう感じがしましたね。ここから何冊も続いて欲しいなと思うんですけど、2011年から橋本さんをそばで見てきたひとりとして、あんまり世に知られたくないって欲もあるんです(笑)。橋本さんはものすごく貴重な人だなっていうふうに捉えているから、旅に同行してもらって言葉にしてもらってきたから、あんまり世に知られたくないって気持ちもあるんですよね。
事実をいかに書き並べるか
橋本
この『ドライブイン探訪』という本が出たタイミングで藤田さんと話がしたいなと思ったとき、東京で話すというよりは旅先で話せたらなと思ったんです。さっき藤田さんが「ツアーをしていくのは僕にとっても大きな仕事でもある」とおっしゃいましたけど、僕もそのツアーに同行して言葉にしてきたこともあるから、旅先で話せたらな、と。ちょうど今、「マームとジプシー」は『BEACH』と『BOOTS』という二つの作品を掲げてツアーをしていて、明日明後日は熊本で上演されるということだったので、「それなら熊本で話したい」と。
藤田
公演のために熊本にくるのは3回目で、スズキタカユキさんの「仕立て屋のサーカス」という企画でもゲストとして参加したことがあるので、熊本はかなり来ている街でもあって。この本の中にも熊本のドライブインのことが書かれているんだけど、橋本さんの文章が良いなと思うのは――本人の前で言うのも恥ずかしいですけど――結構巧いんですよね。熊本のドライブイン以外でも、「夫はもう亡くなっている」みたいなことは、年齢的に当たり前なわけじゃないですか。
橋本
そうですね。話を聞いた方は70代や80代の方が多かったので、そういうお店は多かったです。
藤田
その話を文章の大きなオチにしているわけではないんだけど、夫はいないものとして語られているモノローグが最初に出てきたりして、情報の出し方が巧いなと思ったんですよね。それはやっぱり、演劇的に考えてもそうなるよなと思うんです。最初からいきなり「夫は19年前に亡くなっていて」というモノローグから始められると、その女性が浮かび上がってこないんですよね。最初は夫がいない体で話していて、亡くなったのかどうかわからないまま数ページ読んでいくと、「ああ、やっぱり亡くなってたんだ」とわかるタイミングがやってくる。そこがすごく巧いなと思ったんですけど、そのなかでも阿蘇の話はかなり印象的だったんですよね。
橋本
阿蘇を抜けるやまなみハイウェイの途中に、「城山ドライブイン」ってお店があったんです。そこは勝木斉さんという男性が始めたお店なんですけど、斉さんはサヨ子さんという方とお見合い結婚をして、夫婦で切り盛りしてきたドライブインで。
藤田
しかも、その出会いがすごいんですよね。サヨ子さんがドライブインに入ってトイレを借りようとしたら、「トイレだけはお断りです」と言われたっていう。
橋本
そんな経験があって、「あんな店、もう二度と行かない」と思って過ごしていたある日、サヨ子さんのお父さんが見合い話を持ってきて、会ってみると「トイレだけはお断りです」と言った男性だったという。そのドライブインを最初に訪れたのは2011年で、そのときにはもうサヨ子さんがおひとりで切り盛りされてたんですけど、2011年の段階で2回お店に伺って、お話を聞かせてもらっていたんです。それからしばらく経って、『月刊ドライブイン』を創刊することに決めて阿蘇を再訪したんですけど、そのときにはもう建物が取り壊されていて。そこから何とか連絡先をたどって、サヨ子さんの義理の娘さんにたどり着いたんですけど、そこで「義母はもう亡くなったんです」と伺ったんです。そのことについて書くとすれば、どういう順序で書いていけばこの気分が伝わるだろうかってことを考えて、「城山ドライブイン」の原稿を書いたんです。でも、どういう順序にするかってことはいつも考えてますね。
藤田
やっぱり、わかるわけじゃないですか。2016年に熊本の地震があったことは皆わかっているわけなんだけど、それをどこのタイミングで出すかってことがものすごく重要になってくると思うんです。ドキュメントといっても、ただ事実を書き並べるだけじゃなくて、その並べ方が重要になってくる。この本に出てくるお店は、ことごとくシビアな話にぶつかっていきますよね。それは死に限ったことではなくて、その町がどういうふうに衰退したのかとか、そういった話にもなってきて。それをまとめようとすると、「そんなふうに並べられたらお腹いっぱいになるよ」ってなりがちだと思うんですけど、それを編集によってうまくかわしているから、すごい本だなと思うんですよね。
橋本
情報だけを伝えるのであれば、事務的に箇条書きにして、図録的に整理すればわかりやすくはあると思うんです。でも、その書き方だと残らないものがあるような気がしたんですよね。そのお店に流れてきた時間みたいなものは、そのアプローチでは残せないんだろうなと。
「マームとジプシー」の稽古場に影響を受けたこと
藤田
僕は大学生の頃、民俗学の本にハマってた時期があるんです。宮本常一の本とかを読んで「途方もなく昔の人が、途方もなく昔の土地のことを書いていてかっこいいな」と思ってたんだけど、橋本さんがやっていることも、次の世代の人たちからはそう思われるようになる気がするんですよね。僕は橋本さんと年齢が近いから「途方もなく昔の人が、途方もなく昔の土地のことを書いている」とは思えないけど、宮本常一だって、同年代の人たちからこの距離で「いや、宮本さんさ」と話してたかもしれないわけですよね。だから――これはもう、橋本さんの行為だと思うんですよ。
橋本
行為?
藤田
取材というより、もはや行為だと思うんです。だって、「ドライブイン、面白いでしょ?」みたいなことじゃないですよね。しかも2011年からやってきて、ようやく1冊ですよ。こうやって本にまとまったところで、その取材費に消えたお金の何割かは返ってこないですよね。そうやってドライブインを巡ってきた橋本さんの行為がこの本の中に詰まっているから、読んでいて疲れるんですよね。
橋本
僕は2011年に初めて「マームとジプシー」を観て、2013年の春からは一緒に旅をしてドキュメントを書いてきましたけど、稽古場という場所に足を踏み入れたことはごく限られていて。『まえのひ』、『小指の思い出』、『書を捨てよ町へ出よう』、『みえるわ』、そして『IL MIO TEMPO』と5作品だけなんです。稽古場という場所は何もなくふらりと立ち入れる場所ではないと思っているから、ドキュメントの仕事がないときは近づいてないんですけど、その五つの作品の稽古場を観たときに印象的だったことがあって。たとえば『書を捨てよ町へ出よう』は寺山修司さんの作品ですけど、それをどう再構成して上演するか、すごく時間をかけて考えている様子を横から拝見して。藤田さんの作品はチャプターに分かれていることが多いですけど、まずチャプターのタイトルになりそうな言葉をいくつも並べておいて、それをどの順序で出すかってことをかなり時間をかけて考えてましたよね。そうして作られた作品のドキュメントを書くのであれば、こちらもそれだけ考えぬかないとなってことを思ったんです。「随筆」という言葉は「筆に随う」と書いて、もちろんそれでたどり着ける世界もあるとは思うんですけど、ドキュメントを書くのであればもっと考えぬかなければと思わされたんです。だからドライブインの原稿を書くときも、「このお店だとどんなことがキーワードになってくるか」と書き出して、それをどういう線で結ぶと一番響くかってことを考えて、設計図を先に作ってから書いてたんです。マームのドキュメントにしても、たとえば『文學界』(3月号)に『書を捨てよ町へ出よう』パリ公演のルポを書いたんですけど、藤田さんが演出した『書を捨てよ町へ出よう』は、プロローグがあって、10のチャプターがあって、エピローグで終わるという形式だったんですよね。その作品をドキュメントするのであれば、その文章もプロローグ・10のチャプター・エピローグという構成にしよう、と。皆がパリに滞在する日数がちょうど10日間だったので、そこを10のチャプターに分けて、日記形式で書くことにしたんです。それで、僕は皆より1日早くパリに渡航して、その日のことをプロローグとして書いて、皆が帰った翌日まで延泊して、その日のことをエピローグとして書く。これまで藤田さんの稽古場を観たことも、僕が文章を書く上で結構影響を受けているんですよね。
藤田
演劇を作ることが“出来なくちゃいけないこと”になってくると、「完成したね」みたいなことで喜ぶことは結構昔の段階でなくなって、その作品の構成がこれでいいのかっていうことは考え続けていて。演劇は本とも違って、空間と言葉を伴いながら考えていけないところがあるんだけど、僕はつまらない演劇を観たときに、「僕が構成に入ればもうちょっと面白くなる」と思っちゃうんですよね。テキストを変えなくても、前後を入れ替えるだけで全然風景が違ったりする。本屋で働いていたときも、少し本の配列を入れ替えただけで、めちゃくちゃ売れるようになった本棚があったんですよね。だからやっぱり、どこに何を置くかってことはすごく重要で。『ドライブイン探訪』も、このトークのために読み返したんですけど、読んでいると「日本って結構ヤバいな」っていうふうに思えてきて、日本に疲れてくるんですよ。でも、途中にポンとアメリカの話になって、風が変わるタイミングがあるんですよね。そこが本の中に空間を感じるところで。橋本さんは1度『月刊ドライブイン』としてこの文章を書いたわけですけど、それを1冊にまとめるにあたって、順番を並び替えてるじゃないですか。1回読んだことのある文章でも、配置されてる場所によって印象は全然変わりますよね。最近は音楽をアルバムって単位で聞かなくなってきたのかもしれないですけど、僕はやっぱりCDアルバムってテンポが好きなんですよ。12曲だったら12曲、どうやってこの配列にしたのかってことを考えるし、「この配列のままライブをやるのかな」とか、そういうことを想像しながらCDを聴くのが昔から好きで。それは作品の中でずっと考えていることでもありますね。
土地ごとに異なる「まえのひ」という言葉の響き
橋本
さっき「藤田さんとは旅先で話したいと思った」と言いましたけど、旅先ならどこでもよかったわけではなくて、やっぱり熊本で話したいなと思ったんです。僕が最初にドライブインを巡り始めたのは2011年の秋で、まずは東北をぐるりとまわったんです。そこで当然、地震と津波の跡は目の当たりにするわけです。これは別に、その風景を目にしたことを特権化したいわけではないし、それが直接的に本に影響したってことでもないんですけど、そのときからずっと考えていることがあって。この早川倉庫で過去に藤田さんが上演した作品は『まえのひ』(2014年)と『みえるわ』(2018年)で、いずれも川上未映子さんの詩を藤田さんが演出して、青柳いづみさんのひとり芝居で上演するという作品でした。『まえのひ』という詩は、震災を受けて未映子さんが書き下ろした詩ですね。
藤田
そうですね。それは「誰しもがまえのひにいるかもしれない」ということを書かれた詩なんですけど、それは「明日どうなっているかわからない」ってシンプルな話じゃなくて、「わたしたちはいつも、何か決定的な日の前にいるのかもしれない」って話なんですけど。
橋本
その作品で2014年にツアーをして、まずは東京の早稲田から始まって、いわきで上演し、そこから松本、京都、大阪と移動して熊本にたどり着いたんですよね。あのツアーのとき、移動するにつれて「まえのひ」って言葉の響きが変わっていくのを感じたと思うんです。特に熊本まで移動してきたときは、結構遠くまでやってきたなという感じがありましたよね。
藤田
そうですね。2012年に北九州の人たちと『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』という作品を作ったときにも、「九州は地震なんて起こらない」ってことを言われていたんですけど、2014年の『まえのひ』ツアーのときも、その「まえのひ」って言葉を地震と繫げて考えた人はいなかっただろうなと思うんです。それが良いとか悪いとかって話じゃなくて、そもそも「まえのひ」って言葉は必ずしも震災だけの話ではないと思うんだけど、東北で上演するとあきらかにそこと繫がってしまう言葉が、西に移動すればするほどそうはならなくなってくるって話を熊本でしたんですよね。
橋本
そのあとに、この土地でも震災が起きて。『まえのひ』という作品は、ハイエース1台でまわっていたわけですけど、熊本公演が終わったあと、皆は飛行機で沖縄に移動するなか、俳優の石井亮介さんと中島広隆さんと僕の3人はハイエースで鹿児島まで移動して、そこからフェリーで沖縄を目指したんです。
藤田
その3人で何を話すんだろうって、ほんとに思うんですけど(笑)。3日くらいかかるんでしたっけ?
橋本
25時間だから、丸1日ですね。でも、そうやって陸路で日本を移動していると、いろんなことを思うわけですよ。たとえば鹿児島にたどり着いてみると、桜島は日常的に噴火していて、火山灰が降り注いでいる。2014年の春にはセウォル号の事故もありましたけど、セウォル号というのは鹿児島から那覇の航路で使われているフェリーが払い下げられたもので、沈没事故のニュースを乗務員の人が眺めていて。あるいは、今回の『BEACH』や『BOOTS』という作品は新潟でも上演されましたけど、冬の新潟はものすごく雪が積もる地域もある。それぞれの土地でいろんなことが起きてるけど、その場所に暮らし続けている人たちがいるわけですよね。この8年間、ドライブインを巡るために移動を繰り返してきたけど、この国は災害だらけだなと思ったんです。でも、その土地に住み続けている。人はどこに住むかってことを選択できるけど、そこで町を出る選択をする人もいれば、残り続ける選択をする人もいるわけですよね。
藤田
確かにそれも、この本を読んで不思議だったところなんですよね。「ドライブインをやろう」と言い出した夫が亡くなっても、そこに残り続けて女手一つでやってきたって話が結構出てきますよね。誰かの死に限らず、その場所でいろんなことが起きてるじゃないですか。それが橋本さんによって書かれると、その人が素の状態でしゃべっているような感じで書かれるから、そこもダメージがあるんですよね。
誰かの記憶を書き記すことの責任の重さ
藤田
『ドライブイン探訪』を読んでいると、たとえば「入院することになったけど、手術は無事成功した」っていうところで終わっているドライブインが出てきますよね。この本は記録だから、こうやって本になってしまうと、その夫婦は本の中ではその瞬間で止まるわけじゃないですか。橋本さんはそれをわかった上で書いてるんだと思うけど、「手術が成功してよかった」と書くってことは、いつか訪れてしまう良くないことに向けての記録でもあるわけじゃないですか。それってすごく重たいよなと思うんです。
橋本
今話してくれたのは、奈良にある「山添ドライブイン」の話で。そこはご夫婦で経営されているお店なんですけど、富美代さんという女性が手術を受けられて、しばらく休業してたんです。『月刊ドライブイン』として出してきたものを『ドライブイン探訪』にまとめるとき、去年の年末頃、ここに掲載するすべてのお店に電話をかけたんです。本になることになったんですけど、掲載させてもらってもいいですかと。そうすると富美代さんは「年末からまた入院することになったんです」とおっしゃっていて。先月、「山添ドライブイン」を再訪して富美代さんに会ってきたんです。手術は成功されたけど、入院しているあいだに体力も落ちているから、再開するまでもう1ヶ月はかかるとおっしゃっていて。そこは地元のお客さんが通うドライブインなんですけど、休業しているあいだ常連のお客さんたちは別のお店で食事をするわけだから、そこに流れてしまう可能性もある。だから「いつまで続けられるかわかんないけど、できる限り続けていこうと思います」と富美代さんはおっしゃってましたけど、どんなお店だっていつまでも続くってことはないわけだから、10年後か100年後かわからないけど、どこかで終わる決断をするわけですよね。こうやってドキュメントを書くということは、あくまで「現時点ではまだ続いている」という時間を記録するということでもあるんですよね。
藤田
今の話を聞いていて初めて思いましたけど、この本はここに出てくる1軒1軒にも届けられているわけだから、たとえばその夫婦の息子さんとかが読みうるわけですよね。それを読んだときにどんなことを思うのかなって考えると、ものすごいことだなと思いますね。
橋本
それで言うと、この本の中に津山の「ドライブインつぼい」というお店が出てくるんです。本をお送りしたあとで、そのお店を創業した女性の息子さんからメールが届いて、そこには「妻が今は少し認知症の母に読んであげて その間 母は 涙をポロポロこぼしながら 遠い過去を想い出しているのだろう 妻富士子もいつの間にか涙声で…」と書かれていたんです。それまで感じていなかったわけではないんですけど、自分がやっていることの重さをもう1回考えさせられた気がします。
藤田
そうですよね。それぐらい責任あることはやっちゃってますよね。ほんと、やっちゃってると思いますよ。やっぱ、やらないもん。今の話を聞いていても、誰かのことにそんなに具体的に踏み込むことっていうのは、僕はできないですね。
橋本
でも、藤田さんはもともと自分の記憶をモチーフに作品を作ってましたけど、ある時期から誰かの記憶を扱う作品も作ってきましたよね。さっき話に出た、北九州の人たちと作った『LAND→SCAPE』も、2016年の夏に京都で作った『A-S』も、『IL MIO TEMPO』という作品も、出演者たちにインタビューして、そのエピソードを編集して作り上げた作品でもありますよね。そこで誰かの記憶を扱うことはどんな感覚がありますか?
藤田
やっぱり、すごく責任が伴うものだなと思っているんだけど、記憶というものには噓が入っていることもあると思うんですよね。それが現実なのか噓なのか、その微妙な境界の部分がすごく好きなんですよね。言ってしまえば、誰の話を聞いていても、噓を聞いているような気持ちにもなるんです。もちろんほんとうのことを言ってくれてるんだと思うけど、僕は演劇という観点からしか物事を捉えられなくて。
橋本
演劇というのはフィクションでもあるし、そこで語られることが事実か否かというのは一番重要なポイントというわけではないですよね。
藤田
誰かの記憶を聞いたとき、それを演劇にするにはって観点でしか考えられないから、「このエピソードは、今の僕には無理だ」みたいなこともあるんですよね。だからやっぱり、橋本さんほど「誰が何年に亡くなって、何年に何があって」という表現にはならないところがある。
今の時代から振り返ると、昭和っていう時代がフィクションみたいになってくるじゃないですか。そういうフィルターがかかったことが『ドライブイン探訪』って作品全体に漂っていて、途方もなく昔の話を読んでいるような気持ちにもなるけど、でもそこには現在進行形の感情があるってことも書かれていて。昔のことを振り返って話すと、どこまで本当なのかわからなくなるところがあると思うんです。その話を構成している一つ一つの部品は本当だとしても、どこかが肉付けされていたり、自分が一番言いたい感情を強めに言っていたり、周りから見ればそうじゃないことも本人の主観ではそういうことになっていたりするじゃないですか。でも、橋本さんはできるだけそういう部分を文章上で削いで書くから、そのトーンがやっぱ良いなと思うんですよね。
過去と現在と未来、三つの時間のつながり
橋本
この本はドライブインの店主たちに聞き書きしたものですけど、そのすべてを文字にしているわけではなくて、当然取捨選択をしてるんですよね。何を基準に選ぶかというと、やっぱり、自分が責任を負える範囲で言えることと言えないことがあって。本を出して、何度か取材を受ける機会もあったんですけど、そこで「今後ドライブインがどうなって欲しいですか?」と訊かれても、そこに関して僕が言えることは何もないんですよね。文章を書くときでも、これ以上はとても言えないなって思うときがあるんです。聞き書きは別に、取材する相手になりきって書くわけではないので、「そこまで肩入れしてしまうのは違う」と。だから、言葉を取捨選択するときに、ここは過剰だと思って削ることもあれば、全体のバランスの中でその過剰さが必要だと思えば削がずに残すこともあって、そこは編集してます。
藤田
僕らと一緒にいてドキュメントを書いてくれるときも、時系列を結構ずらしてますよね?
橋本
最初の頃はまったくずらしてなかったですけど、最近はずらしていることもありますね。さっき話した『書を捨てよ町へ出よう』パリ公演のルポについては、かなり操作してます。もちろんそれには意図があって、寺山さんが虚構の人だっていうこともあってあえてそうしたところもあるんですけど。ただ、まったく起こりもしなかったことを書くことは当然なくて、本当は別の日に起きていたことだけど、このタイミングでこの話を持ち出したほうが伝わるはずだと思って、別の日の話に紐づけて書くことはあります。
藤田
それでも橋本さんの文章が噓ではないなと思えるのは、橋本さんの文脈として、「この言葉を聞いたときに、数日前のこの発言を思い出した」っていう形で書いてますよね。人ってやっぱり、一つの時間の流れの中を生きてないと思うんです。僕が演劇の世界で90年代から始まったリアルタイム・ワンシチュエーションの演劇にむしろ噓を見つけてしまうのもそこで、今この瞬間に、全然違う時間のことを想像してしまう一瞬があったりするじゃないですか。本の良いところもそこだと思っていて、たとえばこの本で阿蘇のドライブインの話を読むと、橋本さんほど阿蘇に行ったことがあるわけでもないのに、阿蘇のことを少し知った気になれるし、読んだ翌日に「阿蘇ってこういう土地なんだよ」って誰かに話してもいいわけですよね。だから、何だろう、読書することで、今いるこの場所以外に連れて行ってもらえるのは重要だと思うんです。
橋本
フィレンツェで滞在制作した『IL MIO TEMPO』という作品のことは、「手紙」という形で書き綴りましたけど、そのなかでも、その日のある風景を目の当たりにしたときや、誰かが言った言葉からまったく別の日のことを回想する――そういう形で書き綴っているんですよね。フィレンツェにいるあいだは、皆と一緒にいるあいだはずっとメモを取り続けてましたけど、翌朝に前日のことを振り返ってドキュメントを書くときにそれが頭によぎるとは限らなくて、もっと何日か経ったときに思い出されることもある。それが一般的に正しい書き方かどうかはわからないけど、フィレンツェで過ごした時間を正確に書き記そうとなると、そういう書き方になってきて。
藤田
僕はこれまで記憶、記憶ってよっぽど言ってきたけど、人は記憶込みで生きているってことなんだと思うんですよね。そこでわからないのは未来のことだけで。人は「なんとなく時間を把握したところで生活していきたい」っていうのがあるんだと思うけど、未来と過去は把握できる時間の感じが違うと思うんです。過去はもう、取り返しのつかないことだから、過去を変えることはまったくできなくて。過去に言ったことを打ち消すこともできないし、訂正することもできないじゃないですか。
橋本
どんなに訂正や謝罪をしようと、一度口にした事実は揺るがないですからね。
藤田
過去に言ってしまったことややってしまったことは、それくらい取り返しのつかないところがある。ドライブインにしても、ものすごくシビアなところがありますよね。過去には盛り上がっていた時期があったけど、そこからお客さんがこなくなっていくことを誰も防げなかったし、それは今からタイムスリップしたとしても無理ですよね。
橋本
そうですね。お客さんが入らなくなるのは、そのお店が努力するとかしないとかってレベルの話ではなくて、政治や経済が関わってきますからね。新しい道路が開通したことで交通量が減ったり、町の産業が衰退したことでお客さんが減ったりしたお店も多いので。
藤田
だから、よく「今を生きている」みたいなことを言うけど、今っていうのは過去の余韻でしかないということも、『ドライブイン探訪』を読んでいると感じるんですよね。人は過去からこぼれた余韻のような時間を生きていて、今という時間に何かを意味出さなきゃってことで頑張るんだけど、そうやって頑張ったことがまた未来にこぼれていくだけで、この連続の中を生きている。そう思うと、ちょっと切なくなりますね。
どうすれば土地と関わることができるのか?
橋本
さっきも話した通り、藤田さんはつい最近までフィレンツェで滞在制作をされてましたけど、フィレンツェというのは藤田さんが初めて海外公演を行った土地でもありますね。今回は6年ぶりにその土地で作品を発表されたわけですけど、この6年のあいだ、「マームとジプシー」はいろんな土地を旅してきましたよね。海外公演には僕も同行してきましたけど、2013年5月にフィレンツェを訪れて、次の月にチリに行って、翌年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナからイタリアへと旅をして。サラエボでは日本語が話せるタイダさんという女性と出会って、内戦のときの話を聞かせてもらったじゃないですか。街の中に「スナイパー通り」という通りがあって、名前の通りそこを通るとスナイパーから狙撃されて、彼女は家族と一緒に家の中に閉じこもって身を潜めていて。そこで上演したのは『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品でしたけど、この作品で旅をするときはいつも、どうやって街と出会うのかということを考えてきたように思います。その「どうやって街と出会うのか」ということについて、ここ最近は、藤田さんの考えていることが変わってきているように思うんです。
藤田
あの頃に比べると、頭の中にある地図みたいなものが変わってきた気はします。あのときはまだ28歳ぐらいで、とにかく必死だったから、「作品を上演するからには、またこの土地に呼んでもらえないと駄目だ」っていう気持ちが強かったんですよね。でも、こうしていろんな土地を旅してくると、今まで行ったことのある街全部をもう一度訪れることって、ものすごく大変になってきますよね。そこは別に、一度限りの街があってもいいと思ってるし、僕の構え方が広くなった部分はあると思います。
あと、「 その土地と関わる」 と言ったって、 一つの作品を上演するためだけに訪れて、 数日間しか滞在しない土地に、 関わることなんてできないんじゃないかって思う部分もあるんです。 そこにはただ「 その土地の人たちに作品を見せる」 という事実があるだけだから、 僕に何ができるかって考えると、 演劇用語で言えば「 作品をどうやって場当たりしていくか」 っていうことに尽きる。 これは映画と演劇の大きな違いで、 映画は同じフィルムをスクリーンに再生するけど、 演劇には「 場当たり」 があるんです。 音の鳴りかた一つとっても劇場ごとに違ってくるから、 その会場に合わせて場当たりをして、 作品を作り直していく。 僕がやることはそれに尽きるところもあるんだけど、 そのあいだの時間にちょっと街を歩くだけでも、「 なんとなく、 こういう街なんだな」 っていうことに触れられる気がするし、 そういう時間があるかどうかで違ってくる気がしてますね。
橋本
作品ごとに出演者は違いますけど、どの作品でも皆、結構街を歩いてますよね。
藤田
歩きますね。歩くのが嫌いな人って、周りにいないかもしれないです。歩いていたからわかることって、ちょっとあるんですよね。何がわかっているのかもわからないんだけど。
橋本
その土地に触れることって、すごく難しいなと感じるようになってきたんですよね。ドライブインを取材するとき、どの店も3回は足を運んでから取材してきたんですけど、3回訪れたことで何かがわかるのかというと、「わかる」と言えることってすごく限られていて。そうすると、そこで僕が言葉にできることもすごく限られてくるなと思うんです。
藤田
今の話を聞いて思い出すのは、ひめゆり学徒隊の話に着想を得て今日マチ子さんが描いた『cocoon』を舞台化して、沖縄で上演することになったとき、事前にリーディングツアーをやったときのことで。その場に橋本さんもいたけど、沖縄の民宿に泊まったとき、そこのお父さんも一緒に泡盛を飲みまくって。そこで「今度『cocoon』っていう作品を上演するんです」と話していたら、「お前に何がわかる」って話になったんですよね。その言葉にショックを受けたんだけど、そこでショックを受けたのは、「その通りだな」と思ったからでもあって。
今、橋本さんは「3回訪れたことで何がわかるのか」と言ったけど、たしかにそれって、365日のうちの3日でしかないわけですよね。そう考えると、365日その土地で過ごしている人を前にして、何かを言葉にしたり作品を見せたりするって、すごいことだなと思うんです。地方を訪れたときに、たとえば熊本であれば「僕は熊本の人たちのことが大好きで、熊本の人たちと僕の作品の相性はすごく良くて」とかって語り出すアーティストはいるけど、「いや、それは無理だよ」と思うんですよね。ただ、それを「いや、それは無理だよ」ってことだけにするのも違うなと思ってるし、「いや、それは無理だよ」ってことで済ませてしまうから、沖縄とそれ以外の土地のすれ違いも起こっているように思うんですよね。僕はまだまだ沖縄のことを描きたいなと思っているんだけど、それはなぜかと言うと、沖縄の人たちだけが沖縄のことを考えていることが耐えられなくて。沖縄の外側にいる人がそのことを扱うってことをしていかないと、その人たちがそこに留まったままになってしまう。それが自分の住んでいない土地で作品を発表することにも繫がる気がするんですよね。だから、僕たちは昨日熊本に着いたばかりだけど、そこに後ろめたさは感じなくていいと思っていて。この土地について何かを知った気になれるわけもないんだけど、知らなくていいやと思っているわけではなくて、ある種曖昧な態度でやることが大事なんじゃないかと最近は思ってますね。
世界で起こっていることに応答する
橋本
僕は一昨日まで沖縄にいて、数日後にまた行く予定があるんですけど、それは何をやっているかと言うと、もうすぐ建て替えになる市場の取材をしているんですね(5月23日、本の雑誌社より『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』として出版予定)。その取材をしていると、何度となく「自分は何をしているんだろう?」という気持ちになるんですね。沖縄に生まれた人間でもなければ、そこに住んでいるわけでもないのに、何をしているんだろうなと。それに、僕が取材しなくても、沖縄には人々の生活を聞き書きした記録がたくさん残っているんですよね。それは、それだけ大変な時代があって、そのことを記録しなければと思った人たちによって書き記されてきたものだから、その意味についても考えさせられるんですけど、とにかくたくさん記録はあって。そんななかで、なぜ自分は書き残そうとしているのかと自問自答するし、僕が言葉にできることには限界があるなってことも感じるんです。
たとえば、牧志公設市場の近くに、農連市場というのがあって。そこは数年前に建て替えられて、ショッピングモールのようになっているんですね。牧志公設市場の取材をしているときに、「あなたは新しくできたのうれんプラザのことはどう思うんだ」と問われたことがあるんですけど、僕に言えることは何もないなと思ってしまったんです。それで「すごい、ぴかぴかしますね」と小学生みたいなことを答えたら、「あなたはライターなんだから、もうちょっと何か言葉はないの」と言われてしまったんですけど、僕に言えるのはそれぐらいで。でも、言えることがないから何もしないのかというと、そんなことはなくて、何か関わることができるんじゃないかと思って足を運んで、言葉を書き記しているんですけど。
藤田
でも、それは本当に同じことを思いますね。地震のことだって、その日その場にいなかったから、わからないんですよ。でも、「わからない」って言葉で片づけていいと思っているわけじゃないし、そこでやれることは募金やボランティアだけではないような気がしていて。ひとりひとりに立場ややれることがあるなかで、僕は演劇を作るっていうことになるし、橋本さんだったら書くってことになるのかもしれないけど、そこでいつも考えるのは「わからないって言葉で済ませないようにするためには」ってことで。去年の豪雨の被害だってよっぽどのことだと思うけど、東京の人には届いていないような災害もいっぱいあるじゃないですか。でも、それが届いていないってことは、それぐらいのことだと思われてるってことですよね。あたかも死者の数がすべてのように捉えている人たちがいるけど、演劇や本っていう空間が伴う場所では、もっと細かいところに手を伸ばせるような気がするんですよね。
橋本
藤田さんを見ていると、何かを言葉にすることに対してハードルを持っている人だなと思うんです。毎日、一つ一つのニュースに対して強く何かを感じているんだろうなと思うんですけど、それを直接的に言葉にするわけではないし、作品の中で直接的に応答するわけでもないですよね。それは、目の前に広がる現実にどう対応するかって話にも繫がっていて。たとえば、去年の秋に『書を捨てよ町へ出よう』という作品をパリで上演したとき、ちょうどストライキが広がりをみせていて、シャンゼリゼ通りの近くを歩くと、ハイブランドのショーウィンドウがすべて割られていて、燃やされた車の残骸が残っていたりしましたよね。あるいは、ドイツのケルンを訪れたとき、皆で大聖堂の近くを散歩して、その日は子供がシャボン玉を追いかけている穏やかな風景が広がっていましたけど、その数ヶ月後に大規模な暴行事件が起きてしまって。旅をしていると、そうやって、直面してしまうじゃないですか。
藤田
笑ってしまうくらい直面しますね。
橋本
僕はドキュメントを書く人間だから、そこで起きたことをどう配置するかってことで書くわけですけど、藤田さんはフィクションとして作品を立ち上げるわけですよね。それはつまり、自分がある現実を目の当たりにしたうえで、どういう時間や空間があって欲しいかってことを考えるわけですよね。
藤田
そうですね。直接的に言うことだってできるし、言おうとしていた時期もありましたけど、直接的に言ってしまうとそれだけのことになってしまうんですよね。抽象的な言い方をすると、「痛み」みたいなことって表現にとってはすごく難しいものだと思うんです。その痛みが誰のものであるか限定してしまうと、その人の痛みでしかなくなって、観客席に座っている人たちがその痛みに対して無関係になってしまう。それが一番怖いから、どこまで関係してくれるかっていうことを考えるんですよね。さっきの火山の話もそれに近くて、「あんな感じでマグマが流れる土地があるんだ」っていうのを見てしまうと、そこに住んでいたかもしれない自分を想像してしまって。自分は偶然日本に生まれて、今は東京に住んでいるからマグマが流れてくることはないんだけど、地震が起こる可能性はある。「まえのひ」っていう言葉の不気味さはそこにあって、それは必ずしも地震のことを指しているわけではなくて、誰しも何か決定的な出来事の「まえのひ」にいるんだっていうところにあるんですよね。だから、朝の報道番組もつらくて観れないんですよ。数ヶ月前に橋本さんにインタビューされたときは「観てる」と答えましたけど、つらくて観れなくて。しばらく海外にいたから観なくて済んでたけど、日本に帰ってくるとテレビをつければ報道番組をやっていて、つらくて観れないんです。でも、テレビを観ないようにしていても、ツイッターやインスタグラムで目にしてしまったりする世の中だから、その情報をどうやって咀嚼するのかってことは考えざるをえなくて。たとえば飲み会レベルで「今の政治は終わってるよ」と言うくらいで留めておいてもよいことかもしれないんですけど。でも、僕はそのフラストレーションみたいなものを観客の前で提示して――最近は「観客の前で」って意識もなくて、観客も含めて、立ち止まって考える場所を作っているっていう感覚なんですけど――作品を発表するときに、どこまでろ過して提示するのかっていう網目が年々細かくなってきてますね。
境界線が引かれる瞬間を描く
橋本
今日のトークイベントは「町に残る、町を出る」というタイトルにしましたけど、ドライブインというのはその二つが交差する場所なんですよね。そこを訪れるお客さんは、観光客であれトラック運転手であれ、どこか別の土地からやってきて、また去っていく人たちで。それに対して、店主はずっとドライブインに留まり続けて、ずっとお客さんを出迎えているわけです。そこにある境界線のことをずっと考えながらドライブインを巡ってきたんですけど、境界線というのは藤田さんが最近キーワードとされている言葉でもありますよね。明日と明後日に上演される『BEACH』と『BOOTS』でも町に残る人と町を出る人のあいだに引かれる境界線は登場しますし、今年の初夏に上演される新作『CITY』でも、おそらく境界線は重要なモチーフになって、都市と外側と内側であるとか、「内側」とは何であるのかとか、境界線を超えてやってくるものであるとか、そういったモチーフも登場するのではないかと思います。藤田さんは今、境界線ということにどんなことを感じていますか?
藤田
この本を読んでいても感じたんですけど、人って時間のことを永遠だと思いたいじゃないですか。「この時間が永遠に続いて欲しい」とか、「この人を永遠に愛し続ける」とかってことを含めて、永遠ってことを願うと思うんです。この本に登場する女性たちも、その時間が永遠だと思っていた時代があったと思うんだけど、どこかのタイミングで時間と空間に線が引かれて。そうやって線が引かれたときに、線の内側に止まったのか、そこから出ようとしたのか――それは僕がテーマとして考えているところでもあるんだけど、どういうタイミングで決定的な線が引かれたのかってことをずっと考えてるんですよね。何が善で何が悪かという線引きも、僕が圧倒的に悪だと思っていることを悪だと思っていない人が大勢いるから、今の世の中になっているわけですよね。「その線っていつ引かれたんだろう?」みたいなことってすごくあると思うんだけど、それをどういうふうに作品の中でやれるかなってことを考えてますね。
それで言うと、この『ドライブイン探訪』も、最初は曖昧にされているんだけど、読み進めていくと「ああ、そこで線が引かれたのね」ってわかる文章の書きかたをしてるから、ほんとに読まれ続けて欲しいなと久々に思いました。でも、この作品をあんまり大切にして欲しくないんですよ。
橋本
大切にして欲しくない?
藤田
こうやってトークをすると「重いんですよ」とか言っちゃうけど、一話一話は短いから、雑誌みたいに読まれて欲しいなとも思うんですよね。寝る前に一話読んだり、トイレに置いておいて読んだり、そういう感覚で読まれて欲しいなとも思うんです。ZINEぽさも残っているから、テンポよく読めるんですよね。でも、一話一話にとんでもない線が引かれるタイミングがあって、それを僕は「重い」と言っているんですけど、この本は売れ続けて欲しいなと思います。

藤田貴大さん作・演出『CITY』公演情報

『CITY』
作・演出:藤田貴大
出演:柳楽優弥 井之脇海 宮沢氷魚 青柳いづみ /
菊池明明 佐々木美奈 石井亮介 尾野島慎太朗 辻本達也 中島広隆 波佐谷聡 船津健太 山本直寛 /
内田健司(さいたま・ネクストシアター) 續木淳平(さいたま・ネクストシアター)
<埼玉公演>
会場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 本公演」
日程:2019年5月18日(土)〜26日(日)
公式サイト
<兵庫公演>
会場:兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
日程:2019年5月29日(水)
<豊橋公演>
会場:穂の国とよはし芸術劇場 PLAT主ホール
日程:2019年6月1日(土)〜2日(日)

2019/02/15@Title橋本倫史×森山裕之「“モテる雑誌”を作るために」橋本倫史『ドライブイン探訪』刊行記念トークイベント

橋本
『ドライブイン探訪』は、僕がひとりで作ってきたリトルプレス『月刊ドライブイン』を一冊にまとめたものです。僕が最初にリトルマガジンを作ったのは2007年のことで、『HB』という名前の雑誌でした。その創刊号を出すにあたり、「雑誌を手にとってもらうには、何かきっかけが必要だろう」と考えたんですよね。そこで企画したのが、ZAZEN BOYSの向井秀徳さんに原稿を書いてもらうということと、森山さんへのインタビューでした。森山さんは当時『クイック・ジャパン』(以下、『QJ』/太田出版)の編集長をやめられた直後で、そのインタビューのタイトルが「モテる雑誌が作りたかった」だったんです。『ドライブイン探訪』は、ドライブインを営む店主たちにインタビューした記録でもありますけど、僕が初めてインタビューということを経験したのは、『HB』で森山さんにインタビューしたときだったんですよね。森山さんにお会いしたのは、坪内祐三さんの授業がきっかけで。
森山
坪内祐三さんの文章は編集の仕事をする前から読んでいて、すごく影響を受けた、自分の基本のひとつをつくってくれた書き手でした。『QJ』の編集長をやることになって、雑誌の芯になるような連載を坪内さんにお願いしたくて、何度か打合せというかたちでご相談していたんですが、なかなかオーケーをいただけなかったんです。何度もお会いする約束をするのは申し訳ないから、夜な夜な坪内さんが出没するであろう酒場に出かけて、しつこくお願いしました。それで最後は、観念されたように「じゃあ一度、連載のゼロ回として敬ちゃんと対談しよう」と。そうやって始まったのが、坪内さんの「東京」という連載でした。写真家の北島敬三さんにゼロ年代の東京を撮り下ろしていただきました。編集の仕事を始めたの『QJ』編集部が最初で、それまで2年間ほど編集部にはいましたが、右も左もわからない状態で編集長をやることになったんです。プロの書き手の原稿、連載を取るのは本当に大変ことなんだと思い知りました。坪内さんは当時、早稲田大学で教えていて、橋本君はその授業を取っていたんだよね?
橋本
そうですね。最初に森山さんにお会いしたときはまだ大学生でした。僕はどこかの編集部に所属したことがないので、どうやって取材をするかは周りの人から学ぶしかなかったんですけど、そこで参考にさせてもらったひとりが森山さんで。森山さんが昔、「取材の依頼をするときは手紙を書く」と言って、その手紙を見せてくれたことがあって。それがかなりボリュームのある手紙だったんですよね。それを見て、「そうか、依頼をするには、これぐらい熱量が必要なのか」と。『月刊ドライブイン』を始めてからは、取材したいお店を一度訪れて、雑誌を手渡したあとで「後日お手紙をお送りしますので、それを読んで、取材を引き受けてもらえるかどうか考えていただけませんか」と依頼していたのは、森山さんの手紙が印象に残っていたからなんです。
森山
『QJ』は毎号取材記事がたくさんあったから、取材を依頼することがとにかく多かったんですよ。僕も学生時代はミニコミを作ってたけど、大学を卒業したあとは印刷会社の営業をやっていて、取材の依頼方法のことはまったくわからないわけです。新卒で出版社に入って上司にいちから教えてもらったり、編集部に取材依頼のフォーマットがあればそれをなぞって企画書を書くんだろうけど、自分にはそれがなかった。橋本君が見た企画書はあだち充先生に送った手紙だったと思うけど、「僕は昭和49年生まれです」から始まるほとんどラブレターみたいな内容でしたね。そのときも実は一度、小学館の編集部に取材依頼の電話をして断れているんですよ。「先生は基本取材は受けていません」と。「すみません、一度企画書だけファックスしますので読んでください」と伝えて送ったのがその手紙です。
橋本
今、「学生時代はミニコミを作ってたけど」という話をされましたけど、今日はその『ミエナイザッシ』というミニコミを持ってきました。今日持ってきたのは9号と10号で、9号の特集はまさに「手紙」です。
森山
それ、持ってきちゃったんだ(笑)。久々に見ました。これは大学時代から作っていて、出身の長野の高校時代の友達や、東京に出てきて学生寮で知り合った人たちと合議制で作っていた雑誌です。だから僕も、最初は見よう見まねですよ。この雑誌で映画監督の園子温さんに長いインタビューをしてるんですけど、自分で初めてやった取材でした。それで思い出したけど、僕が『QJ』の編集長だったとき、橋本君はまだ学生だったこともあって、仕事できてないじゃないですか。でも、未遂が一回だけあるんです。
橋本
未遂と言いますと?
森山
音楽の特集を組んだときがあったんですが、向井秀徳さんの密着記事を作ることになって。橋本君が原付でZAZEN BOYSのライブを全国巡ってる話は聞いてたから、その記事の担当編集に橋本君のことを推薦したんです。でも、それぞれの記事は担当編集が責任を持って背負うものであると思っていたから、あまり強くは言いませんでした。結局担当は橋本君に依頼しなかったのか、未遂に終わりました。
橋本
そう考えると、ドライブインも10年近く追いかけてきてようやく本になりましたけど、ZAZEN BOYSもずっと追いかけていて、そんなことばかりやっているような気がしますね。
ドライブインに対する熱量はどこからやってくるのか?
森山
橋本君は、昔から全然変わってないでしょう。ZAZEN BOYSを追いかけて、ドライブインを追いかけて、マームとジプシーを追いかけて。その時間のかけかたと取材のしかたが一貫してるよね。
橋本
そうですね。『ドライブイン探訪』を出したおかげで、取材してもらう機会も増えたんです。そうすると「これだけ各地のドライブインを訪ねて、それも二度、三度と繰り返し訪れるとなると、さぞ大変だったでしょう」と言われることがあるんです。でも、そうやって足を運ぶことを大変だと感じたことは一度もないんですよね。「交通費って、お金がかかるものだなー……」とは常々思いますけど、移動すること自体は苦にならないですね。
森山
『ドライブイン探訪』を読むと、一つのお店を都合3回は訪れていると書いているけど、橋本君が初めて訪れたドライブインで、ただ黙ってビールを飲んで佇む姿が浮かんできますよ。1回目の訪問では取材しないんだよね?
橋本
お会計のついでに「何年頃に創業されたんですか?」くらいのことは聞いたりしますけど、基本的には取材っぽいことは何もしないですね。それで、2回目に訪問するときは「今日は居座るぞ」と決めて、電車とバスを乗り継いで、徒歩でドライブインに行くんです。ドライブインだから、徒歩でアクセスしやすい場所にはないんですよね。それでも徒歩で出かけて、入店するなり「ビールお願いします」と。
森山
飲むために歩いて現地まで行く?
橋本
そうです、そうです。ドライブインはメニューが豊富なお店が多いので、ひたすらビールを飲みながら、気になるメニューをあれこれ頼んで。そうやって何品も注文していると、「このお客さん、ほんとにお金を払って帰るのかな?」と心配されるのか、「ドライブインでお酒飲んでるけど、この人は何者なんだろう?」と様子を伺われているのか、お店の方が料理を運んできたついでに少し話しかけてくれたりするんですね。そこでちょこちょこ言葉を交わしていくなかで、そこがどんなお店であるのかを把握して、帰り際に「実はこういう雑誌を作ってまして」と『月刊ドライブイン』を渡すんです。3時間ぐらい延々飲み続けているので、会計が7、8千円になることもあります。
森山
ようやく2回目の訪問が終わりました。いわゆる「コスト・パフォーマンス」から考えるとすごく効率が悪い。
橋本
そうですね。コスト・パフォーマンスって言葉は僕の中にないかもしれないです。
森山
僕もその言葉は嫌いなんですけど、橋本君の対象へのコミットのしかたはやっぱり独自だし、それが文体にもつながっていると思う。ホホホ座の山下賢二さんが帯の推薦コメントで「足を使った取材には勝てないす。熱量に乾杯」と書かれてますけど、まさにそういう取材の結果がこの本ですね。
橋本
たしかに、自分のやっていることを客観的に振り返ると熱量以外の何物でもないんですけど、自分自身としては熱量がある人間だと思ってないんですよね。
森山
この本の中に、阿蘇の城山ドライブインという店について書いた文章の最後に、橋本君はこう書いています。「帰りの阿蘇くまもと空港で、少し時間を持て余してガイドブックをぱらぱらめくってみた。阿蘇の見所と紹介されているのは動物と触れ合えるテーマパークやアウトドアスポーツを堪能できるネイチャーランド、それに日帰りでも楽しめる温泉あたりだ。僕はこれまでに四度阿蘇を訪れたことがあるけれど、動物と触れ合ったこともなければアウトドアスポーツを体験したこともなく、温泉につかったこともない。残りの人生でもそれらの場所を訪れることはないかもしれないけれど、『城山ドライブイン』が再開する日には再びやまなみハイウェイを再訪するつもりでいる。」と。これは、熱量でなければ、何なんですかね?
橋本
何でしょうね。「桜が咲いたら、近所にあるこの場所で花見をする」とか、それぐらいの感覚な気がします。ちょっと、今の言い方はちょっとキザでしたけど、お店に対する愛着とか、「ドライブインを愛してやまない」という気持ちで行っているとか、そういうことではないと思うんですよね。自分でもどうしてそうなるのか、わからないんですけど、「今のうちに行っておかないと」という一心ですね。
森山
それは「熱量」って言葉じゃないかもしれないけど、橋本君をそこまで駆り立てるものは何なんだろう?
橋本
ドライブインに関して言うと、最初にドライブイン巡りをしたのは2011年なんです。その時点でもう「いつか取材をして、一冊の本にできれば」と思っていたんですけど、具体的な手立てはまったく考えてなくて。いつかと思っているうちに時間が過ぎてしまって。それで、2017年のお正月に、「今年の抱負は何にしよう?」と考えたとき、ドライブインのことを思い出したんです。以前取材したお店のことを検索すると、前に訪れたことのあるドライブインが、結構な数閉店してしまっていて。このままだと話を聞けなくなってしまうと思って、『月刊ドライブイン』を創刊して取材をすることにしたんです。ただ、そこで取材をするときに、初めて訪れたお店にいきなり取材することだってできたはずだし、それこそコスパの良い取材だってできたと思うんですよね。でも、どうしてもそれができなくて、何度か通って取材しているうちに、房総半島にある「なぎさドライブイン」というお店だと、話を聞かせてもらったあとで「今日は泊まっていきな」と言われたんです。そこでご飯もお酒もいただいて、「橋本さんと俺とはもう、一生の付き合いだからな」と言ってくださって。
森山
僕は橋本君のキャラクターを知っているけど、そんなに自分からグイグイ行くタイプじゃないよね。だから、そこで「一生の付き合いだからな」ってなるのが不思議で。
橋本
それは僕も不思議です。話を聞き出すためにってことで、そんなに芝居がかった振る舞いをしているわけでもないんですけどね。ただ、これまでもお店の基礎データを聞きにくる人はいたと思うんですけど、その方の人生を聞きにくる人は少なかったんじゃないかと思うんですよね。僕はお店をされている方の生い立ちから話を伺って、人生を語ってもらうことになるので、「一生の付き合いだからな」とおっしゃってくれるのかもしれません。
活字でドキュメントを書き記すこと
森山
さっき話に出ましたけど、橋本君は最初に『HB』というリトルマガジンを作って、そのあと『hb paper』、『SKETCHBOOK』と作ってきたけど、それぞれ何号ぐらい出ました?
橋本
そんなに出せてないんですよね。『HB』は7号まで、『hb paper』は3号で終わってしまってます。
森山
これまで橋本君が作るリトルマガジンをずっと読んできたけど、まず、『月刊ドライブイン』は続いたのが特徴だよね。
橋本
そうですね。『月刊ドライブイン』に関しては、創刊号を出す時点で「10号から12号で完結しよう」と決めていて。それぞれの号でどのお店に取材するかも、もちろん取材を断られたお店もあるから計画通りに行かなかった号もありますけど、「この号ではこういうお店に取材しよう」というプランは全部立ててたんです。だから出し続けられたっていうのも大きいですね。
森山
僕は今、スタンド・ブックスという出版社をやっていて、去年(2018年)、パリッコさんの『酒場っ子』という本を出しました。それは全国のいろんな酒場を紹介する本で、今はなくなってしまったお店を含めて40軒のお店を紹介しているんです。その本を編集するときに思ったのは、やっぱり本に出てくるお店が似てはいけないということ。ドライブインもそうだと思うんですけど、もちろん経営されてる人が違うからそれぞれ違う店ではあるにせよ、やっぱり似てくるところはあるはずです。『ドライブイン探訪』も『酒場っ子』も網羅することが目的ではない。その中で似ているお店を並べないためには、ある程度テーマを持ってそれぞれのドライブインを描いていくことになったと思うけど、橋本君の場合、そういう選択も取材も編集も、完全にひとりでやっていたわけだよね。取材するドライブインはどんな感じで選んでいったの?
橋本
2011年に日本全国をぐるっと巡った時点で、いくつか類型があるなと思ったんですね。ざっくり分けると、トラックが多く走る幹線道路沿いか、観光バスが通る道かという二つがあって。もちろんそれ以外にもあちこちにドライブインはありますけど、現在残っているなかでも、そうやっていくつか類型があるなと思ったんです。その横軸とは別に、縦軸みたいなものもあって。歴史を遡れば、戦争が終わってGHQが駐屯した時代に、アメリカの文化が駐屯地の近くに持ち込まれて、それで都心にドライブインもできている。当時の日本人で車を持っている人はごく少数でしたから、それはもう、あこがれのアメリカだったと思うんですよね。それが、モータリゼーションの普及とともに、ドライブインも全国に創業されてゆく。なぜその場所にドライブインができたのかということも、話を聞いていくと必然性があって、その話を辿っていくと、日本の戦後史のようなものが描けるんじゃないかと思って。その全体像を描くにはどういう配置にすればいいかってことを考えてましたね。
もう一つ、『月刊ドライブイン』を出しているときに気にかけていたのは、地域を散らすっていうことで。『月刊ドライブイン』は1号につき2軒のドライブインに取材してましたけど、そこで「今回は岩手と青森のドライブインです」とやってしまうと、読んでくださる方は「ああ、今回は東北に出かけたんだな」と安心して読める気がして。それだとインパクトが薄いですけど、「今回は北海道と阿蘇のドライブインです」となれば、「えっ、全然違う方向に出かけてるじゃん」ということでギョッとしてもらえるんじゃないかと思ったんです。そこでざわついてもらえないことには反響がないなと思って、取り上げるお店は散らすようにしてましたね。
森山
じゃあ、2回目、3回目の訪問に関しては、月刊ペースで行ってたんだ?
橋本
そうですね。前の号を入稿した瞬間から「次はどこに取材したいんだっけ?」とノートを取り出して、そのお店に足を運んで依頼して、オーケーならもう一度訪問して話を聞かせてもらうってことを繰り返してました。
森山
『BOOK5』(トマソン社)という雑誌の最終号(vol.19/2016年)が「年末恒例アンケート 今年の収穫」特集で、僕も声をかけてもらってアンケートに答えたんです。「今年出会った本とそれ以外の収穫を」との設問に、本以外のものとして選んだものの一つがNHKの『ドキュメント72時間』だったんですね。「市井の人の顔と言葉から目が離せなくなる。こういう風景を活字で、本で記録したい」と、当時僕は書いています。『ドキュメント72時間』は、皆さんもよくご存知だと思うんですけど、ああいうことが本でできないかとずっと考えていたから、『月刊ドライブイン』を読んだときは「やられた」と思ったんですよ。『ドキュメント72時間』は、それぞれの場所に来るお客さんに取材することが多いけれども、そこに出てくる人たちの表情や言葉が、どんな有名人や成功者の言葉よりも自分の中に入ってくる。偶然その場所に来て、投げかけられた問いにぽつぽつ答える言葉や、態度のようなものに、とても大切なものを受け取ることがある。それをどうすれば活字でやれるだろうか、成立させられるだろうかと思っていたら、橋本君が『月刊ドライブイン』でそれをやってた。だから、何で自分のスタンド・ブックスから『ドライブイン探訪』を出さなかったんだろうと(笑)。
橋本
ありがとうございます。『月刊ドライブイン』には毎号裏テーマみたいなものがあって、第4号であれば「沖縄」だったんです。そこで沖縄のドライブインを取材するとして、一つはスープというものを軸に書きたいなと思っていたんですね。そこで候補の一つとして考えていたのは、恩納村にある「シーサイドドライブイン」というお店だったんですけど、ここはまさに『ドキュメント72時間』で取り上げられたんですよね。それだと後追いになってしまうんじゃないかということで、別の店にしようと考えて、もう一つ気になっていた本部町の「ドライブインレストランハワイ」に取材して。今になってみると、「ハワイ」で話を聞けて本当によかったなと思ってますし、「シーサイドドライブイン」を取材しても後追いみたいな記事にはならなかっただろうなと思うんですけど、『ドキュメント72時間』のことは一方的に意識してますね。
森山
群馬の「ドライブイン七輿」は『ドキュメント72時間』が取り上げたんだっけ?
橋本
『ドキュメント72時間』には出てないと思いますけど、夕方のニュース番組の特集コーナーとかでは何度も取り上げられてますね。ただ、それに関しては「これなら全然勝てる」と思っていたので、気にしてなかったです。
森山
勝負してたんだね。橋本君が活字にしてきたテーマはこれまでにもいろいろあったけど、『月刊ドライブイン』を読んだとき、何か掴んだなと感じがしました。僕は『QJ』のあとに、『dankaiパンチ』(飛鳥新社)という雑誌に関わって。そのあと『マンスリーよしもとPLUS』(ヨシモトブックス)という雑誌を作って、そこでは一緒にお仕事をすることもありましたね。
橋本
そうですね。僕が初めてインタビューした相手は森山さんですけど、初めてインタビュー仕事を依頼してくれたのも森山さんで、それは森山さんが『dankaiパンチ』の編集部にいらしたときだったんですよね。そこで初めてお仕事をして、その後で『マンスリーよしもとPLUS』をリニューアル新創刊されたときにお仕事をする機会が増えて。『マンスリーよしもとPLUS』では、ドキュメントの仕事を依頼してくれることが多かったんですよね。今でもM-1グランプリのシーズンになるたびに、年の瀬も押し迫った時期に、大井競馬場で凍えながらネタをされている芸人さんたちの姿を取材していたことをよく思い出すんです。そういったコンテストの現場の取材や、劇場の舞台裏の取材をすることも多かったんですけど、ある原稿を送ったあと、森山さんから言われたことがずっと残っていて。「ドキュメントというのは、取材される側が『ここは書かれたくないな』というところにまで踏み込んだ原稿のほうがいい」と。もちろん、ほんとに嫌だと思われたらボツになってしまうけど、「ここまで核心を突かれると困るけど、まあでも、こんなふうに書いてもらえるのであれば」と思ってもらえる原稿のほうが結果的に取材対象に残るものになる、と。当時、僕もライターとしてそんなに経験がないなかで、どこまで踏み込んで取材するか、躊躇していた部分が大きかったんだと思うんですよね。それで森山さんはそう言ってくださったんだと思うんですけど、その言葉がずっと残ってますね。
森山
そんな偉そうなこと言ったっけ(笑)。言ったほうは忘れてるね。でも、それで思い出したのは、「キングオブコント」の現場だったかな、どこの記者も取材を終えているのに、橋本君がピースの又吉直樹君にずっと質問を続けていたときがあって。「ああ、この人しつこいな」と思った。いや、いい意味でね。もう皆帰ろうとしてるのに、ぎりぎりまで何かを拾おうとしていた。それにちゃんと答えようとするのも又吉君なんだけど。その姿をそばで見ていた映像が今、甦りました。その後も、橋本君は又吉君との関係が今に至るまで続くことになりますね。
同時代に届けることと、未来に書き残すこと
橋本
『HB』というリトルマガジンを創刊したとき、森山さんにインタビューをさせてもらって、そのタイトルを「モテる雑誌が作りたかった」にしたわけですけど、そのフレーズに僕も何かを託していた気がするんです。それは実際にモテたいとかってことではなくて、雑誌を作る以上は、より遠くに届けなきゃいけないってことをずっと考えていて。
『HB』でインタビューさせてもらったときに森山さんがおっしゃっていたことですけど、『クイック・ジャパン』という雑誌は、タイトルに「クイック」という言葉が含まれているように、街で生まれつつあるカルチャーをいち早く言葉にする雑誌として創刊されたわけですよね。森山さんは2003年に編集長になられて、今の時代に何が可能かと考えたときに、『クイック・ジャパン』をこれまで通称だった『QJ』という表記に変えられて、それはつまり、インターネットがこれだけ普及した今、雑誌にできることは「クイック」であることではないんじゃないかと考えられたということだったと思うんです。そこで何を扱うのかというときに、印象的だったのは2006年に「政治」という特集を組まれたということで。『QJ』が政治特集を組むということはインパクトがありましたけど、それは「今の時代にカルチャー誌を作っていて、政治を扱わない理由がない」ということだったと思うんですね。でも、ただ政治特集を組んでも届かない可能性があるなかで、その号は長澤まさみさんで巻頭特集を組んで、長澤まさみさんが白のタンクトップ姿で表紙を飾っていて、白地に赤で文字を入れて、そこに「政治」という言葉も載っている。その号のインパクトがあったから、『HB』を作っているときは、拙いながらも「どうすれば届くか考えないと」ということを考えていた気がします。
森山
橋本君がさっき「ギョッとさせたい」と言ってたけど、それに尽きる気がします。ミュージシャンや俳優に取材しようとしても、基本はプロモーションのタイミングしか稼働してもらえないんで、主演映画が公開されるとなると、世の中に同じ人が表紙の雑誌が並ぶという現象が起こる。雑誌を作る時、それは何とか避けたかったし、読者を常にびっくりさせたいと思っていました。政治特集も、出したあとで散々色んなことを言われましたけど、普通に触れるものとして、生活や文化の延長線上に政治というものがあるはずだと思った。だから、キャスティングや角度など、色々工夫して、自分たちの身のまわりにあるものとして政治を捉え直したつもりです。政治特集は、『QJ』をやってて途中からずっとやりたかったことの一つでもあったから、あれを作ったことで気持ちが次に行っちゃったところもありました。
橋本
『HB』の最後の号を出したのは2010年の秋だったんですけど、2010年から2011年という時期は、振り返ってみると結構転機だったなという感じがするんです。それは震災のことを言いたいというわけではなくて、森山さんとは『マンスリーよしもとPLUS』でよく一緒にお仕事をしてましたけど、2011年の年始に出たピース特集が最後ぐらいで、そのあとお仕事をする機会が遠のいたんですよね。別に何があったということでもないんですけど、それと近い時期に3年間作ってきた『HB』も出さなくなって、その頃に自分のモードが変わったような気がするんです。『HB』は「“モテる”雑誌を作ろう」と思って作ってましたけど、その気持ちが一回途切れたというか。なぜそうなったのかは自分でもわからないですけど、そんなにライターとしてたくさん仕事をしているわけでもないなかで、「広く届ける」ってことばかり考えていてもしょうがないなと。今の誰かに届かなくてもいいから、自分が今書き残しておくべきだと思うことを、一つでも多く書き残しておかないとってモードに変わったんです。
森山
それで自ら取材して編集して書店に卸す、リトルプレスに力を入れ始めるわけだよね。
橋本
そうですね。ありがたいことに、レギュラーでいただいていた仕事もあるので、そこでお金を得て、あとはひたすら自分が書いておきたいものを追いかけるようになって。最初にドライブインを巡ったのも2011年ですけど、今でもずっと追いかけているマームとジプシーの作品を最初に観たのも2011年の春だったんですよね。
森山
そういうふうにモードが変わった原因は、何だったんだろうね?
橋本
何でしょうね。でも、演劇を――というよりも、マームとジプシーを――観始めたことが大きい気がします。最初のうちは「この人たちの作品は面白い」と思って観ていたんですけど、東京以外で上演されるときも「観にきてくださいよ」と声をかけられて、観に行かない理由がないから観に行くようになって。それがさらに遠くなって、海外公演のときも「観にきてくださいよ」と言われて、それも断る理由がないから、イタリアまで普通に観に行ったんですね。その頃から、せっかくだから書き残しておきたいと思って同行記を書き始めて。そうやって言葉に書き残し始めた頃は、これは一大事になるんじゃないかと思ってたんですよね。今思うと我ながら呑気ですけど、演劇のツアーに誰かが同行して書き残すことなんて珍しいことだから、これは一大事になるはずだ、と。でも、一大事になるどころか、ほとんど反響らしいものはなくて。そこで「自分の活動の意義をアピールしたり、それが多くの人に届くように働きかける」ってことになってもよさそうなものなんですけど、そうはならなかったんですよね。マームとジプシーの活動のスピードが早いってこともありますけど、そんなことをしている暇があるなら、一つでも多く書き残しておかなければ、と。書いておけばいずれ誰かがわかるだろうという気持ちで、ずっと取材してきた気がします。
百年後の読者を想像する
森山
今回のトークイベントは「“モテる”雑誌を作るために」というタイトルをつけていただきましたけど、その「モテる」って言葉の意味が変わった気がするんです。『QJ』をやっていたときは「広く届けたい」って気持ちで作ってましたけど、インターネットの状況も含めて時代が変わっていくなかで、どんどん円が小さくなったというか。そこで今、本に、雑誌にできることを考えると、「記録する」ことに尽きるんじゃないかと。記録したいから本を作っているし、記録したいからこれから雑誌も始めようと思ってます。そこでモードが変わったのが、世の中の変化なのか、自分自身の変化なのか、今日、橋本君と話す中で自分でも確認したかった。
橋本
どっちなんでしょうね。2011年に出会ったものはいくつもありますけど、その一つはシンガーソングライターの前野健太さんで。それまでも名前は知っていたんですけど、そんなに熱心に聴いていたわけでもなかったんです。ただ、地震のあとに高円寺のライブハウスで、前野さんのライブがあって。その時期はライブが自粛になっている時期でしたけど、「このライブはやります」という情報が流れてきたんです。その時期、僕はとても呑気に過ごしていたので、ライブがあるなら観に行きたいってことで、ふらりと観に行ったんです。そのライブで撃ち抜かれて、ツアー先のライブまで観に行くようになって。
森山
編集者の森田真規君が作っている『なんとなく、クリティック』という雑誌で、シンガーソングライターの前野健太さんについて書いてたよね。あの橋本君の文章はすごく好きです。
橋本
ありがとうございます。あれも『ハッピーランチ』というアルバムがリリースされたタイミングではあったんですけど、時間をかけてインタビューさせてもらって。そのインタビューというのも、ツアー先のMCで前野さんがポロっとおっしゃったことが僕の中にずっと残っていて、「いつだかそんなふうにMCでおっしゃってましたけど」と質問したりして。前野さんからすると、ツアー先でふいに口にした言葉なんて、消えゆく言葉であって欲しかっただろうなと思うんですけど、その質問にも答えてくださって、それで書けた原稿でしたね。
森山
それまでも橋本君が自分のことを書いた原稿もあったと思うけど、相手と自分の関係とか、もちろん震災直後のことも書かれていたし、社会や時代のことも含めて、今を記録しようとしていることが伝わってきた。文章でうまく書く/書かないってことじゃなくて、「ちゃんと記録しよう」という強い意思が感じられたんだよね。
橋本
森山さんはスタンド・ブックスという出版社を立ち上げられて、最初に作られた本が前野さんの『百年後』(2017年)でしたよね。「100年後」というのは前野さんの歌のタイトルでもありますけど、それは僕がすごく好きな歌の一つで。あの歌をいろんな土地で繰り返し聞きながら、百年後っていう時間のことを想像してみたときに、今の時代にどう受け止められるかわからないけど、百年後にはきっとこれを必要とする人がいるはずだって確信に近いものを抱いたことは、記録という方向に気持ちが向いていった大きなポイントの一つであるのかもしれないです。
森山
まさに『ドライブイン探訪』も、「そうして書き綴られた言葉が、たとえば一〇〇年後に生きる誰かに届くことを想像する。その誰かに、この言葉たちはどんなふうに伝わるだろう?」という言葉で締めくくられています。僕はスタンド・ブックスで本を作ったあと、「編集後記」みたいなものを毎回ウェブで書いてきたんですけど、前野健太の『百年後』を作った後には「『百年後』は、ゼロ年代後半から2010年代の、今の時代の「東京の空」の下の記録である」と書きました。『QJ』をやっていたときは、常にその時代の新しいものや、それをどのような角度で取り上げるかということを読者に求められていると思っていました。そして、それを自分に課してきました。同時代の前野健太の日記(ウェブ連載「Life」)を読むと、彼が売れなかった時代、毎日労働をしながら、音楽に真摯に向き合いながらようやくファーストアルバムを出す日々が綴られていた。それを読んで、この精神を「残しておきたい」、「記録しておきたい」と思ったんですよね。「モテる」雑誌をと言っていた頃も、雑誌や本を編集するとき「記録」ということは常に頭にありましたが、「モテる」という意味合いが次第に変質してきて、「記録する」という気持ちは今、さらに強くなっている気がします。
仕事論として読む『ドライブイン探訪』
橋本
僕がドライブインを取材し始めた理由というのも、記録しておきたいというのが大きな動機だったんですよね。ただ、いざ『月刊ドライブイン』を創刊するとなったとき、これまでとは違うことも考えるようになって、これまでとはちょっと違う意味で「モテる」ってことを考えなきゃなと思ったんですよね。『月刊ドライブイン』を創刊すれば、ドライブインの店主たちに話を聞くことはできるし、原稿と写真をチェックしてもらって、とりあえず「この形で記録してオーケー」という許諾をもらうことはできるわけですよね。ただ、リトルプレスの形のままで終わってしまうと、百年後という時間を想像したときに、「よっぽどのことがないと、百年後にこの文章を発掘してもらうことはできないな」と思ったんです。この本は僕の表現なんてことではなくて、ひとりひとりに人生を語ってもらった記録でもあるので、もっと広い規模まで届かせる責任がある、と。そのためには書籍化まで漕ぎつけないとということで、読者にギョッとしてもらう方法を考えるようになったんです。
森山
先日、下北沢の「B&B」で橋本君と又吉君がトークしたとき、橋本君が「ドライブインを取材することは、女性がテーマになるってことに途中で気づいた」と話してたでしょう。『ドライブイン探訪』を読んでいると、夫に先立たれた女性が、その後もひとりで続けているケースがすごく多いじゃないですか。それを読んで、皆さん何を思って続けているんだろうってことを考えてしまった。理由は人によって違っていて、「ボケ防止のために続けている」と冗談半分に語る人もいれば、「近所の人に続けて欲しいと頼まれて続けている」という、いわば受け身な理由で続けていらっしゃる方が多かった。そこが、この本を読んでいちばん感じ入ったところでした。
橋本
お店を始めたきっかけを伺うと、これはご本人の言い方をそのままにして話しますけど、「最初は主人が『ドライブインをやるぞ』と言い出して、商売の経験も料理の経験もないまま操業して、主人に先立たれた今はひとりで続けてます」とおっしゃる方が多いんですよね。あるいは、創業したのは両親だけど、自分は長男/長女だから、「せっかく親が始めた店を潰してしまうのは心苦しい」ということで、本当は別にやりたいこともあったんだけど、仕方なく継いだって方も大勢いらっしゃる。僕自身は好き勝手に過ごしていて、行きたい場所に行って会いたい人に会う仕事をしているから余計に、そうやって40年、50年と過ごすっていうのはどういうことなんだろうと考えてしまうんですよね。
それで、『 月刊ドライブイン』 には毎号裏テーマがあったと話しましたけど、 6 号はまさに「 女性」 がテーマだったんです。 それで、『 月刊ドライブイン』 というのはほんとに慌ただしく作っていて、 ひとりで取材してひとりで書いて、 自分で版を組んで入稿して―― と続けてきたものなので、 事前に印刷所に連絡しておく余裕がいつもなかったんです。 それで、 いつものように直前になって注文を出すと、「 いつも使っていただいている、 わら半紙の在庫がありません」 という話になって。「 ただ、 それに近い手触りの紙ならあります」 と言ってくださって、 きちんと確認しないまま「 じゃあその紙でお願いします」 と発注したら、 仕上がってみるとピンク色の紙で。 別に意図があってその色を選んだわけでもないのに、 僕が「 女性だからピンク」 と考えたみたいになってしまって、 ちょっとそわそわした号だったんです。
その6号を作っている時期に、 川上未映子さんが責任編集された『 早稲田文学 女性号』 が出版されて。 その巻頭言を川上未映子さんが執筆されているんですけど、 そこに「 言葉や物語が掬ってこなかった/ こられなかった、 声を発することもできずに生きている/ 生きてきた『 女性』 がいる。 そしてそれらは同時に、『 語られることのなかった、 女性以外のものやできごと』 を照らします」 という言葉が出てくるんですね。 その言葉がすごくまっすぐ届いてきて、 それ以降はその言葉についてぐるぐる考えていたから、 その側面が強くなった気もします。
森山
ドライブインを続けている女性たちは、受け身な選択の中で仕事をしてきたのかもしれないけど、彼女たちが語っている言葉が仕事論としても人生論としても響きました。僕は社会人になって、5年間印刷の営業をやってたんですけど、それは自ら望んだ就職ではなかったんです。それでも一所懸命毎日営業をやっていた頃、実家に帰った時に母親から「仕事というのは御用聞きなんだよ」と言われたことを、『ドライブイン探訪』を読んでいて思い出しました。それは当時、営業の仕事をやっていた自分に向けられた言葉だったんですけど、今、編集者をやる上でも生きる言葉だと実感しています。本や雑誌も、人が求めているものを編集者が察知して作っていくものだと思っています。今回、本になった『ドライブイン探訪』を読み返して、そのことを強く感じました。
雑誌は時代を記録する
橋本
森山さんは今、スタンド・ブックスから雑誌を出そうと準備を進められているんですよね。それはどういう雑誌になるか、方向性は決まっているんですか?
森山
自分がこれまで作ってきた雑誌は、「広告収入で制作費を賄う」というものではなくて――もちろん広告も入ってましたけど――書籍と一緒で、売上で成立するものを作ってきました。週刊誌のような情報を提供するものではなく、書籍として成立する雑誌です。違うのは、本がひとつのテーマで、ひとりの著者であることが多いけど、雑誌は様々な記事を複数の人間が書いているということです。ただ、20年間この業界にいますけど、本の初版部数は落ちました。新刊時の注文数が圧倒的に少なくなったからですが、その大きな要因は書店の数が減りつづけていることです。一方で個人の小規模な書店が全国に増えている。そこでどんな雑誌ができるか、もうここ何年もずっと考えていて、ようやくかたちにするところです。雑誌のいいところは何より、それを言い訳に人に会いに行けることですよね。
橋本
ああ、そうですね! それはドライブインを取材していても思ったことです。雑誌を作っていなければ会いに行けなかったけど、「こんな雑誌を作っているんです」と差し出すから、話を聞くことができて。
森山
あと、記録ということで言うと、本より雑誌のほうがより一層「記録」の度合いが増します。同時代の異なる表現を一つのパッケージにまとめるという意味では、雑誌がいちばんの記録だと思う。それで今、スタンド・ブックスから異なる3つ雑誌を作ろうと思っているんです。まずは今年、『酒場っ子』のパリッコさんと『のみタイム』というお酒の雑誌を始めます。昨日も最初はお茶を飲みながら打合せをして、酒場に場所を替えて終電まで飲みながら打ち合わせをしてました。
橋本
それで今日は二日酔いだったんですね?
森山
安い焼酎で深酒して、今日の午前中は使い物にならなかった(笑)。でも、やっぱり雑誌の話をしてるのがいちばん楽しい。ひとりじゃなくて、複数で作るのもやっぱり楽しい。
橋本
森山さんがまだ前の会社にいらっしゃった頃から、「いつか雑誌を作ろうと思っている」と聞いていたので、楽しみにしてます。
森山
でも今、総合誌を作ろうという感じにならないんだよね。『QJ』は総合誌のつもりで作ってたんだけど、今はそういう気持ちにどうしてもならない。もう一つは文芸誌で、もう一つは漫画雑誌。今、成立する文芸誌とは何か、毎日頭の隅でそのことばかり考えています。漫画雑誌はウェブでやります。ウェブでどう「雑誌」にできるか、「記録」できるか、自分にとっても新しい挑戦です。共に来年(2020年)、かたちにしたいと動いています。

2019/02/13@Readin'Writin'橋本倫史×向井秀徳「記憶を探す、街を彷徨う」対談トークイベント

橋本
今日はまず、どうして向井さんとトークイベントを開催したいと思ったのかというところからお話しできればと思っています。あれは2004年のことだから15年前になりますけど、僕がZAZEN BOYSのことを好きになって、「一本でも多くライブを観たい」と思い立って、原付でツアーを追いかけたんです。
向井
そうね。それはZAZEN BOYSのセカンドアルバムを発売するという冠でツアーをやることになって、細かくいろんなところに行きたいなと思って、結構な数のライブをやったんだろうと思うんですね。そのツアーのときに、リトルカブでやってきて。
橋本
そうです、そうです。そのツアーは帯広で始まって、次の都市が札幌だったんです。札幌ではZAZEN BOYSのライブだけではなくて、スナックを貸し切って弾き語りのライブもあったんですよね。そのライブが終わったあと、その場でそのまま飲み会になりまして。50人ぐらいお客さんがいたんですけど、向井さんがひとりひとりに話しかけていて。
向井
それ、全員で飲んだんやっけ?
橋本
全員で飲みました。そのとき、向井さんがひとりひとりに「自分、何しとる人?」と聞いてらしたんです。そこで僕が「東京で大学生をしてます」と答えると、「東京? ああ、札幌が地元で、里帰りしてるのか」と言われて。「いや、実家は広島です」「広島? じゃあ何で札幌におるのよ」「いや、このライブを観たくて、原付で北海道まで来たんです」「ちょっと、こっちに座れ」という流れになって、その日は最終的にラーメン屋さんに連れて行ってもらったのが最初の出会いですね。
向井
ああ、そうか。それで、財布事件はいつだっけ?
橋本
それはその翌々日ぐらいですね。札幌の次は函館でライブがあって、札幌から函館まで一日で移動しなきゃいけなかったんです。案外近いかななんて思ってたら、調べてみると400キロくらいあったんですよね。朝早くに札幌を出て、ひたすら移動してたんですけど、長万部あたりで財布を落としてしまって。ただ、その日は台風が近づいていたこともあって、早く函館にたどり着かないと夜を越せないなということで、とにかく函館まで走ったんです。そこで警察署に遺失物届を出して、問い合わせてもらったら、交番に届いてたんですよ。でも、それが届いてるのは長万部の交番で、片道100キロくらいあるから、その日のうちに取りに行くのは難しそうだったんですよね。それで「今晩ホテルに泊まるお金を貸してもらえませんか」と警察署で相談したら、「警察は銀行じゃない」と言われてしまって。落ち込んだ気持ちで外に出ると、通りの向こう側を楽しそうに歩いている人たちがいて。こっちは財布を落としたのにと勝手なことを思いながら眺めていたら、そのうちのひとりが僕に気づいて、道路を渡ってきて、「あれ、札幌にいたよね?」と声をかけられたんです。ああ、この人も札幌のライブを観にきてたお客さんかなと思っていたら、その人がくるりと振り返って、「向井さん、原付の青年ですよ!」と。驚いてそちらに視線を移すと、向井さんが歩いてきて。思わず「財布落としたんです!」と伝えると、「ラーメン食いに行こう」と向井さんが言ってくれたんですよね。
向井
またラーメンに行った?
橋本
またラーメンに行ったんです。そのラーメン屋さんで、「自分、財布落としたか」と向井さんに言われて。「はい、落としたんです。でも、交番に届いてたみたいで」「そうか。でも、絶対中身はないけどな」と言われて落ち込んでいると、向井さんが自分の財布を取り出して、中に入っていた4万円を差し出して「とっとけ」とおっしゃったんです。いや、財布自体は見つかっているのでと断ったんですけど、「いや、一回出したものは引っ込められん」とおっしゃって。じゃあ、財布を取りに行ったらすぐ返しますと受け取ると、「いや、返さんでいい。返さんでいいから誠意を見せろ」と言われたんです。
向井
北海道つうのもあるしさ、『北の国から』の世界じゃないですか。
橋本
その日は同じホテルに部屋を取っていただいて。エレベーターで別れるとき、扉が閉まる瞬間まで「誠意を見せろ」とおっしゃっていて。誠意って何だろうなと思いながら、15年が経ちました。
橋本
僕がドライブインに興味を持つきっかけになったのも、ZAZEN BOYSを追いかけていたことが関係していて。2008年の初夏に宮崎・熊本・大分・長崎とまわるツアーがあったんですよね。いつか九州をぐるりと巡ってみたいと思っていたので、「これは観に行こう」と。大阪まで原付で行って、そこからフェリーで鹿児島に出て、宮崎を目指したんです。そうやって国道10号線を走っていると、すごく奇抜な建物があって、これは何だろうと近づいてみるとドライブインと書かれていて、「ああ、言われてみればドライブインって全国各地にある気がする」と。それまでも原付でツアーを追いかけていたから、ずっと一般道を走っていたんですけど、ドライブインを一度も気にかけたことがなかったんですよね。でも、鹿児島でドライブインの存在が気になり始めて、そこから東京まで帰るあいだに注意して走ってみると、ものすごい数のドライブインがあって。それまで自分の目に一度も留まったことがなかったということも含めて、ドライブインのことが気になり始めたのが10年前なんです。僕は小さい頃、家族でドライブインに出かけた記憶というのはないんですけど、向井さんはドライブインって利用してましたか?
向井
うちの父親の実家は佐賀にあるんですけど、転勤が多くて、小学生のときは福岡市内に住んでいたんです。盆とか暮れには福岡から佐賀まで車で移動するんだけど、どのルートを使うかっていうのは色々選択肢があるわけ。その頃から九州自動車道は整備されてたんだけど、都市高速とはまだ然繋がってなくて、九州自動車道に乗るには福岡市の外れまで行かないといけなくて。そのルートよりは、福岡市からまっすぐ下に降りる下道というのがあって、これが標準ルートなわけですよ。そのルートで行くときもあるし、山越えをするときもあるんだよね。その山越えをするときに、やっぱりドライブインがあって。すごいシンプルですよ。でっかい看板で、「ラーメンとライス」と書いてある。
橋本
「ラーメンと餃子」や「ラーメンとチャーハン」ではなくて、「ラーメンとライス」。
向井
「ラーメンとライス」。その看板がカーブのところにあるわけだ。そこを通りかかるたびに、子供ながらに盛り上がるのよ。「ラーメンとライス」って面白いじゃない、自分で言ってみるとさ。そこに立ち寄ったことは一度もないんやけど、ポイントとして「ラーメンとライス」という看板が出ていたことはおぼえとるね。それと、父親の実家は佐賀県だけども、母親の実家は長崎の佐世保というところで、佐世保に行くことも多いのよ。そこに向かう途中の国道沿いにもドライブインは何軒かあって、帰りが遅くなったときはドライブインに寄って食事をして、また福岡市に戻るっていうことはよくやってたね。それはもう、ベーシックなドライブインだったな。そこにね、西岸良平の『三丁目の夕日』のコミックスがあって。今は何十冊と出てますけど、まだ何冊かしか出てなかったんだよね。その頃はまだ子供だったから、西岸良平の世界には反応できなかったんですよ。ただ、かすれたドライブインで、西岸良平を読みながら焼肉定食を食べたことはすっごいおぼえてる。その焼肉定食というのも、お皿がアルミのお皿でさ、これ、何の肉を使っても同じだろうってぐらい濃い味つけだったんだよね。
橋本
ドライブインって、濃い味つけが多いんですよね。
向井
そこに立ち寄るのは夜も深い時間で、だいたいシーンとしてる。そこにNHK-FMが流れてる、その雰囲気だね。やっぱり、索漠とした印象が強いね。その時代、80年代だろうけど、その時点で寂れてるんだ。
橋本
僕は2017年の春に『月刊ドライブイン』というリトルプレスを創刊して、向井さんには読んで欲しいと思って、毎回MATSURI STUDIO宛に送りつけてたんです。こんなことを自分で聞くのも図々しいですけど、読んでいただいて、いかがでしたか?
向井
毎回、薄っぺらいなーと思ってさ。内容じゃなくて、ページ数がね。でも、毎月送られてきて、楽しみでしたよ。薄っぺらいと言ったけど、ちょうど良いページ数で。「あ、届いたな」と思って居酒屋に行って、瓶ビールを飲みながらじっくり読む。その時間は楽しかったですね。「ああそうか、今度はこっちに行ったか」と思いながらね。北から南まで、全国行ってますもんね。
橋本
毎回違う地域に出かけてました。あるとき、向井さんが『月刊ドライブイン』の感想をメールしてくれたことがあって。「毎度毎度漂う、ある種の索漠感はなんだろうな。絶滅していくドライブインはやはりその存在自体が寂しいのか。アナタの視線がセツナミーなのか。いずれにせよセツナミーを感じる」と。その「セツナミー」というのは何なんでしょう?
向井
セツナミーね。切なさがあるっていうことなんだろうけど、まあセツナミーがあったね。やっぱりあなたの目が見た風景が文章になってるわけだから、あなたがセツナミーを感じてると思うけどね。セツナミーって一体何なのか。私は旅行とか、そういうのはあんまり興味ないんですね。ただ、あるとき電動アシストつき自転車を購入して、行動範囲がだいぶ広まったんですよね。東京都内ですけど、いろんなところに行ってみるようになって。どこに行くかというと、風呂ですね。東京都内には銭湯がすごい多いから、「電動自転車で行ってみっか」と行くようになって。MATSURI STUDIOは渋谷区笹塚にあるんですけど、自転車でだらだら行って、1時間半ぐらいすると荒川区まで行くわけ。
橋本
この会場の近くですね。結構遠出するんですね。
向井
そういうときに、いわゆる幹線道路は使わずに、わざわざ細い道を選んで移動したいわけですよ。するとね、商店街に迷い込んだりする。そこは初めて訪れる商店街で、別に懐かしさを感じるわけではないんだけども、「この感じ、知ってるな」と思ったりする。この商店はもう閉まってるけど、何売ってた店だったんだろう。昔は商売になってたんだろうけども、今はもうシャッターが降りてひっそりしている。その侘しさね。ワビシミーと言ってもいいけども、ノスタルジーとワビシミーがある。そこで夕暮れ時を迎えたりするわけだ。夕暮れって、人の脳細胞に直接囁きかけてくるから、それに支配される。その瞬間の気持ちというのは、皆さんよくご存知だろうと思うんですよね。それも総じてセツナミーだね。そこでセツナミーを感じて、風呂に入って帰ってくる。これが楽しかったりするんですね。つげ義春さんがまさにそういう、寂しい旅日記みたいなやつをいっぱい出してるじゃない。あれは絶望的に孤独な気分に浸りたいがために、山村地帯にある閑散とした温泉に行ったりする。私の場合はそういうことじゃないんだけど、商店街とか、当たり前のような団地とかね、そういうところを走る。そうすると、私鉄沿線の駅前って大体同じやなと思うんですよね。ドラッグストアがあって、日高屋があってさ、最近あるのは鳥の唐揚げ屋さんですよ。その要素が、どこへ行っても全部同じなんだな。それはすごく窮屈だなと思いますね。ただ、活きがいい商店街というのもある。戸越銀座みたいなでっかいやつじゃなくてさ、普通の商店街でもね。そういう商店街は、確実に本屋さんが営業してるんだね。町の本屋さんが絶対ある。生活に余裕があるんかなって、勝手に思ったりするんですけどね。最近は無機質に見える街並みが増えてるけど、その街にしかない風景っていうのがね、見たいですね。
橋本
ドライブインというのは、今残っているのは個人経営の店が多いんですね。40年、50年も家族で経営してる店だから、ちょっと家みたいになってるとこもある。常連のお客さんからもらったお土産が並んでたり、おそらく店のお子さんが好きだったのであろう、30年くらい前の漫画のポスターが黄ばんだ色になりながらも貼られていたり、時間の経過がすごく見える。僕はそこに何かを感じるから、ドライブインを巡ったんだろうなと思うんですね。じゃあ何でそこに何かを感じるようになったかというと、この15年、向井さんの歌を繰り返し聴いてきた影響が大きくあると思うんですよね。向井さんの歌には、ある街の風景の中に立っている「俺」がいて、そこで何かを感じているさまが歌われることが多いように思うんです。つまり、ただ街の風景を歌にするだけではなくて、そこにセツナミーを感じたり、ささくれ立った気分になったりしている「俺」のことが歌われている。それを繰り返し聴いてきた影響は大きいなと思うんです。
向井
街の見え方というのは、年齢を重ねるごとに変わってきたような気もするし、夕暮れ時にはこんな気分になるっていうのは変わらない部分もありますね。
橋本
向井さんはこれまで、CITYという場所を繰り返し歌われてきましたよね。向井さんはある時期まで佐賀に住まれていたわけですけど、高校を卒業して佐賀から博多に出るときとか、そこでバンドを組んで東京に出るとき、博多や東京という都市はかなりギラついた場所に映っただろうなと思うんですよね。その都市のギラつきというものを感じたことがある人は多い気がするんです。自分が生まれ育った町から、もっと大きな都市に出る、と。ただ、年齢を重ねるごとに変わってくるものがあるとすれば、CITYの見え方というのも向井さんの中で変わってきた部分があるんですか?
向井
街を変化させようとする勢いが確実に激しくなっているような感じというのは、肌で感じてますね。ただ、街というものは新陳代謝していくもので、しょうがないことなんだなとも思いますね。渋谷の再開発に対しても、「その再開発の波に乗っていかなければいけない!」という焦りみたいなやつはないんですよ。それはたぶん、年齢なのよ。もし若いときだったら、もっとガツガツした気持ちが生まれたかもしれない。でも、そういうのはないね。私は福岡から東京へ出てきてからずっと渋谷区民なんですけど、渋谷区にはなんとかアンバサダーという役割があるの知ってますか。昔、アンバサってジュースがありましたけど、ジュースじゃなくてアンバサダー。俺も渋谷区民だし、もうちょっと若いときであれば「何かをアンバサしたい!」と思ったかもしらんけど、全然思いませんね。
橋本
新しい潮流に乗っかっていくかどうかは別としても、なくなっていくものがありますよね。向井さんが出かけている銭湯というのもどんどん減ってますけど、ドライブインもどんどん減っていて。そこで「ドライブインが残って欲しい」と言えるかというと、「残って欲しい」とまでは言えないんですよね。では、なくなっていくものに対してどういう態度でいればいいかってことについて、ドライブインを巡りながら考えたんですけど、答えがなくて。
向井
答えはないですね。しょうがない。「諸行は無常である!」と言って、飲み屋で冷酒の一杯でも飲んでますよ。その一言で片付けようや。諸行は無常である。ただ、銭湯はね、流行ってるとこは流行ってますよ。家族が引き継いでいるわけじゃないかもしれんけど、建物をリニューアルして利用客が増えたりね。引き継ぐ人がいなくて畳んでしまうとこも多いけど、リニューアルして成功してるとこも多いですよ。たしかに、綺麗だしね。風呂入りに行って汚かったら嫌だね。汚い銭湯を「渋い!」とは思わないですね。汚ねえラーメン屋なら、それも味になるかもしれんけど。
橋本
向井さん、前におっしゃってましたよね。自分が九州にいた頃の基準だと、汚いラーメン屋にはハズレがないと思ってたけど、東京ではそれが通用しなかった、と。
向井
そうですね。やっぱ佇まいが渋い店だと――いや、でも、今はもうないですね。福岡でも、汚ねえ店はなんかまずいね。ウマい店は、古くさくてもちゃんと綺麗にしてますよ。MATSURI STUDIOの近くにもじいさんがやってる中華屋さんがいっぱいあって、よく昼飯食いに行ってたんだけど、ある日「都合により休業させていただきます」と貼り紙が出ててさ。ほどなくして「長らくのご愛顧いただきましてありがとうございました」って潰れてるのね。気合いを入れたラーメン屋さんというのもあって、そういう店は美味しいんだろうけどさ、行列ができてるわけだ。昼飯食うのはそういうとこじゃなくて、パッと入って「タンメン!」と注文して食うのがいいんだけどね。何の変哲もないただの中華屋のタンメンが好きなんだけど、そういう場所がまったく減ってるんですよ。食うところがなくなってきているということに、現実問題としてぶつかりますね。別に日高屋でもいいんだけど、なんかデジタルなんですよね。
橋本
向井さんは、ライブで日本各地を移動することが多いですよね。最初にバンドでツアーにまわったときは、ツアーに出るってこと自体がまだ珍しかったんだと思いますけど、そんな日々が日常になって、日常という言葉も通り過ぎるくらい当たり前になってくると、移動した先で目にする街の風景というのも見え方が違ってくると思うんですよね。僕が最初に原付で旅に出たときから、ドライブインはそこにあったと思うんですけど、その当時は移動すること自体が珍しくて、あんまり風景のことは見えてなかった気がするんです。でも、移動を繰り返しているうちに目が変わってきて、そこにあるドライブインが目に留まるようになったんだと思うんです。向井さんの中では、街の見え方が変わってきたところは何かありますか?
向井
またセツナミーの話になりますけど、自転車であちこち行っているとね、いよいよアパートが切ないなと思って。アパートですよ、アパート。中野区でもいいですけどね、細かい道に入ると、アパートがずらーっと並んでるのよ。そこを通るたび、その一室一室に住んでる人たちの生活が、なんかこう、よぎるわけですよ。どんなふうに暮らしてるのか、具体的にはわからんけども、自転車でサーッと行くたびに「いろいろなことがあるんやろうな」とよぎるわけですね。「このアパート、くるね」と。それは別に、形状じゃないんですよ。そのアパートが建設されてる場所も関係してるのかもしれないけど、「これ、いいね」と思うアパートがある。それをね、名づけてるんですよ。「おお、実にアパーティング・アパートメントだね」と。そうやってアパートに対して気持ちが入ることは今までなかったですね。それは自転車の速度感っていうのも作用してるんじゃないかと思う。歩いてどこかに行くとき、そういうことを考えたことはないからね。
橋本
きっと、ちょうど良いスピードがあるんでしょうね。車だと速過ぎるし、歩いているとそこまでじっくり観察しないという。
向井
最近好きなのは、たとえば「80年代 街」とかで、ネットで画像検索するんですよ。そうするといろんな写真が出てきて、「新車買いました!」ってときだろうね、当時の大学生みたいな人がプレリュードと一緒にニカッと写っているような、まったく個人的な写真もたくさん出てくる。もちろん全然知らない人ですよ。でも、そういった写真を見ると、なんとも言えない気持ちになる。自分の人生とは関わりがない人の記録がここにあるんだと思って、変な気持ちになる。それが好きで、よく見てますね。そうやって検索していると、街の風景の写真も出てくるんですよ。それが一体どこなのか、探すことを趣味にしてますね。
橋本
ああ、実際に探すんですか?
向井
あのね、Googleマップで探すんです。わかりやすいのは、電柱なんかに地名が書かれていればすぐ探せるんやけど、特に探し甲斐があるのは商店街ですね。商店街の風景って、基本的にどこも同じだからね。でも、最近は結構な確率でたどり着けるようになって、パッと見れば「これは何県だな」とわかるようになって。後ろに山の影が写っていれば「これは中国地方だな」と。
橋本
山の感じって、地域ごとに結構違いますよね。
向井
違うと思うんだよね。北海道は街のつくりが全然違うからわかりやすいけどね。「雪が降ってる、これは北だ」とかね。そうやってたどり着くのは、ひそかな楽しみですね。
橋本
最近、向井さんがバンドでも弾き語りでもよく演奏されている曲に、「amayadori」という曲がありますね。これは2008年にリリースされたコンピレーション・アルバムに寄せられた曲ですけど、その頃はあまりライブで演奏されてなかったですよね?
向井
ええ、してないですね。
橋本
でも、それが最近になって頻繁に演奏されるようになって。「amayadori」の歌詞には、降り続く雨の色を青だとイメージするけれど、それが実際には黄色であり、しかしながら他人から見ればあきらかにねずみ色である、といったフレーズが登場しますよね。他人から見ればあきらかにねずみ色で、実際には黄色であるものを青だと認識する。それを「幻を見る」と形容すると怪しい感じになってしまうけど、「天狗」という曲にあるように、他の人には見えない何かが、向井さんに見えるようになっているのではないかという感じがするんですよね。
向井
いや、そういうことでもない気がしますね。自分だけが幽霊のような存在になって、そこから世界を見ている――そういうことではないと思いますね。雨宿りをしている人たちが皆、それぞれ考えていることがあって、それが同時多発的に渦巻いている。「人間は一つの感情で構成されているわけではない」というのは昔から思っていることで、そういう歌も作ってきましたけど、「amayadori」で歌っているのもそういうことじゃないかと思いますね。私だけが離れたところから世界を眺めているわけじゃなくて、全員そうなんだと思う。それはアパート一室一室に対して何かがよぎるってことと近い気がしますね。いろんなことがあり過ぎてよくわからんけども、「でも、それが世界だろう!」って、それだけはわかる。私は別に、世界を理解しようとも思ってないし、理解する必要もないと思ってますけどね。
橋本
僕がやっている仕事はドキュメントで、ドライブインであればドライブインを一軒一軒訪ねて、そこにどういう生活があって、どういう時間が流れてきたのか聞いてまわる作業なんですよね。向井さんは、ある風景を目のあたりにしたとき、それを歌にするわけですよね。それは、ドキュメントとは根っこが違う作業だと思うんです。僕は、目の前にある風景に気になることがあれば、直接質問としてぶつけるんですよね。でも、向井さんはそうやって直接問いかけるわけではないし、問いかけることでは解決しない何かがあるってことだと思うんです。
向井
そうですね。そこで答えを知ったところで、「ああ、そうですか」となるだけだと思う。「なんでこんな気持ちにさせられるんだろう、教えてくださいよ」と、風景に対して問いかけることはないですね。答えを求めようとはしません。こういう感情なんだと説明できればすっきりするのかもしれないけど、それが説明できないから、歌を作って歌ってみようとするんだと思いますね。

激動の時代に、ドライバー客を迎え続けた店主たちの半生

平成も終わりを迎えつつある今、「ドライブイン」といっても通じない方もいるかもしれません。高速道路にあるサービスエリアやパーキングエリアでもなく、近年注目を集めつつある道の駅でもなく、ドライブイン。ロードサイドを走ると、現在では廃墟になってしまったお店も含めて、数多くのドライブインを見かけます。どうして日本全国に「ドライブイン」と看板を掲げるお店が誕生し、どうして現在ではその数が減りつつあるのか。

道路沿いにひっそりと佇み、ドライバーたちに食事を提供する人々。クルマ社会、外食産業の激変とともにあった、その人生とは? 本書『ドライブイン探訪』は、著者が一人で企画・取材・制作を手がけた少部数の自主出版=リトルプレス「月刊ドライブイン」(全12号)をもとにして生まれた一冊です。今、徐々に消えつつある全国のドライブインを訪ね歩き、店主の個人史をじっくり聞き出すことで浮かび上がる「昭和」を記録します。

リトルプレス「月刊ドライブイン」(全12号)

書店員から絶賛の声、ぞくぞく

街道沿いに社会を読む。その控えめで確かな声

──Title 辻山良雄

足を使った取材には勝てないす。熱量に乾杯

──ホホホ座 山下賢二

店を生んだ人と町と時代の、宝物のような記録

──市場の古本屋ウララ 宇田智子

理想の記録文学です。写真もすごい

──蟲文庫 田中美穂
目次
  • まえがき
  • プロローグ
  • 酪農とドライブインの町 直別・ミッキーハウスドライブイン

ハイウェイ時代

  • かつてハイウェイ時代があった 阿蘇・城山ドライブイン
  • 東海道はドライブイン銀座 掛川・小泉屋
  • クルマで巡る遍路道 高知ドライブイン27
  • 千日道路の今 奈良・山添ドライブイン

アメリカの輝き

  • 一九六六年のピザハウス かつて都心にドライブインがあった
  • グッド・オールディーズ 平塚・ペッパーズドライブイン
  • オレンジ色の輝き エイアンドダブリュ沖縄株式会社
  • 沖縄で感じるハワイ ドライブインレストランハワイ

花盛りの思い出

  • 観光バスはどこまでも 能登・ロードパーク女の浦
  • レトロなオートレストラン 群馬・ドライブイン七輿
  • トラック野郎のオアシス 福島・二本松バイパスドライブイン
  • ドライブインのマドンナ 千葉・なぎさドライブイン

移りゆく時代に

  • きたぐにの冬 青森・わかばドライブイン
  • 目的地はドライブイン 栃木・大川戸ドライブイン
  • 一本列島の夢 児島・ラ・レインボー
  • 採掘のあとに 筑豊・ドライブインかわら

店を続けること

  • 霧に包まれた道 津山・ドライブインつぼい
  • 雪に覆われた道 南魚沼・石打ドライブイン
  • 海辺 岩手・レストハウスうしお
  • 川辺 小山・ドライブイン扶桑
  • エピローグ
  • 戦後 鹿児島・ドライブイン薩摩隼人
  • あとがき
  • 参考文献

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橋本倫史(はしもと・ともふみ)

橋本倫史(はしもと・ともふみ)

1982年、広島県東広島市生まれ。ライター。本書以外の著書に『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』『東京の古本屋』(ともに本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。2007年にリトルマガジン『HB』を創刊。以後、『hb paper』、『SKETCHBOOK』、本書の元となった『月刊ドライブイン』などのリトルプレスを手がける。
著者によるまとめ

ドライブイン探訪 橋本倫史

橋本倫史

ドライブイン探訪

四六並/320頁/本体1700 円+税/
ISBN: 978-4-480-81850-8

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ドライブイン探訪 橋本倫史(ちくま文庫)

待望の文庫化!

橋本倫史

ドライブイン探訪 (ちくま文庫)

ちくま文庫/432頁/990円(税込)
ISBN: 978-4-480-43817-1

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