第1章 【現代編】「現場的教養」の時代
- リーダー・フレンドリー?試し読み
- 日常のことばで考える
- パッシブにならない
- コミュニケーション圏の外へ
- タコツボ化と総合
- 水平の深みとパララックス
- のっぺりした世界に歴史性を
- アートの新しい活用法
鷲田清一(わしだ・きよかず)
第3章 【制度編】大学と新しい教養
- 「いま・ここ」を内破する知試し読み
- ジャンル混淆性の再帰的設計
- とある改革私案
- 第三の大学の誕生?
- フレーム構築力を身につける
- 専攻の二刀流主義を導入せよ
- エンサイクロペディアへの回帰
- 教養としてのアーカイブ活用
吉見俊哉(よしみ・しゅんや)
第2章 【歴史編】日本型教養主義の来歴
- 教養主義の起源をめぐって試し読み
- マルクス主義と日本主義
- 文学部的なものの盛衰
- 丸山眞男と吉本隆明
- 卓越化から平準化へ
- 研究者の劣化スパイラル
- 「上から目線」というけれど
- 文化ポピュリズムの構造
竹内洋(たけうち・よう)
第4章 【対話のあとで】全体性への想像力について
大澤聡(おおさわ・さとし)
教養の更新のために
山本貴光(やまもと・たかみつ 文筆家/ゲーム作家)
「教養」と聞いてなにを連想するだろうか。例えば1980年代のいわゆるニューアカデミズム・ブームで、なんの役に立つかと関係なく現代思想を面白がった人と、大学で自分の専門に関係のない教養科目は無駄だと感じた人とでは、印象もおおいに違っているはずだ。
少し長い目でこの百年ほどの歴史を振り返ってみても、社会や技術を含む環境は大いに変化してきた。そうした中で教養もさまざまに形を変えてきた。『教養主義のリハビリテーション』という書名は、かつての教養を尊ぶ気風がいまでは廃れたという診断を反映している。そこからどう回復できるかというわけだ。
著者は大澤聡さん。『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店、2015)で厖大な文献を渉猟し、そのエッセンスを畳み込むような文体で高密度に論じてみせたのは記憶に新しいところ。その後も三木清の論集三部作(講談社文芸文庫)を編み、『現代日本の批評』(共編著、講談社)や『1990年代論』(編著、河出書房新社)では歴史を眺望、マッピングする才を発揮している。大学で教鞭をとる一方でゲンロンやテレビなどでもご活躍の俊英である。いまの世には珍しく対象に鳥の目と虫の目の双方から迫ろうとする、それこそ教養の人だ。
本書で大澤さんは三つの対談と一つの論考を通じて教養の過去と現在と未来を検討にかけている。対談の相手は鷲田清一(哲学)、竹内洋(教育社会学)、吉見俊哉(社会学)のお三方。議論の背景にあるのは、明治から現在にいたる日本における知的な環境の変化だ。古くは教養とは、文化の受容を通して自らの人格を向上させるといったエリートの修養であった。時代が下るにつれて、教育と出版を通じて知の普及、大衆化が進んだ。教養は万人に開かれ一見言祝ぐべき状況だが実際にはどうなったか。皮肉なことに教養の価値は見失われた。
かつての教養主義の中核を担っていたのは、文学や哲学を中心とする人文書の読書だ。昨今人文学は、なんの役に立つか分からないと見なされることも多い。またインターネットやスマートフォンの普及に伴い、読書は動画やゲームその他の各種コンテンツと並ぶ選択肢の一つになった。知りたいことがあればネットを検索すればよいのだから、わざわざものを覚える必要もない。無駄を退け合理性や効率をよしとする風潮もこうした状況を後押しする。もはや教養などなくてよいのではないか。
そうは問屋が卸さない、というのが本書の主張だ。例えば、仕事の現場では、日々さまざまな意志決定を迫られる。関連する情報やデータは厖大にあり、そのままでは情報の海に溺れてしまう。そんなとき必要なのは、ものを見るためのフレーム、適切に取捨選択する基準を自分で設定することだ。そのためには特定の専門分野や、目先の有益さだけに目を奪われているのでは足りない。どうしても総合的・横断的な判断が必要となる。
例えば、原子力や自動運転車やAIといった技術を応用する場面では、科学や技術のみならず、環境、生活、政治、経済、法律、人間の心理や生理なども関わってくる。次にどうなるか予想もつかない状況では、人間がこれまでなにをしてきたかという歴史や文化に関する見識も不可欠であり、自分たちが拠って立つ前提を疑って検討にかける哲学的思考も重要である。
では、どうすればよいのか。各種アーカイヴを使いこなし、無数の情報から信頼に足るものを選ぶ目を養うこと。そのままではバラバラの断片を位置づけ総合的に捉えること。そのためには日頃から自分とは異なる発想に根気強くつきあい、脳裏にマッピングするとよい。その際、かつて教養主義で重視されていた幅広い読書と精読は、いまもなお強力なトレーニング法である。虚実が入り乱れた情報の大渦の中で正気を保ち、未来を展望するためにも、本書は役に立つ。
「ちくま」(2018年6月号)より転載
知の連帯の輪を広げる
鹿島茂(かしま・しげる 作家/フランス文学者)
学問のタコツボ化が進行し、知の下方修正が日々繰り返される現代において、いかにして教養を再建するか?
この難問に取り組むために大澤聡は三人の先達を召喚、彼らとの対話を通じて教養のリハビリテーションを試みるが、そのリハビリの過程で見えてきたのは、「比喩の力」によって異質な対話者の中に類似性を見出し、それを軸にして新たな協同性を模索してゆく「対話的教養のススメ」だった。
とりあえずは話してみよう。そして、比喩の力で知の連帯の輪を広げていこう。
21世紀における教養の再建はここから始まるのである。
準備運動としての「教養」
仲正昌樹(なかまさ・まさき 法哲学/政治思想史/ドイツ文学)
批評家としてだけではなく、メディア論や論壇史の研究者としても注目されている大澤聡と、文系アカデミズムを代表する三人の大物との対談集である。三人とも“教養主義の凋落”にほとんど影響を受けそうにない、言論人としての安定した地位を築いている人だけに、“若手”向けの、「従来の教養観が崩壊しても生き残れる強さを持て!」式の話が繰り広げられるのかと思いきや、私の陳腐な予感はしっかり裏切られた。
「教養」をめぐる議論は、文化的に価値の高い書物を読むことで培われる“旧来の教養”か、IT・AIリテラシーを核とする“新しい教養”かの二者選択になりがちだが、三つの対談では、「教養」の“本質”論に深入りせず、これまで「教養」と呼ばれてきたものが成立し、存続できた条件や、その社会的機能が即物的に語られている。現象学の視座からのファッション論を経て臨床哲学を切り開いた鷲田清一との対談では、ニューアカデミズムを支えた野生のコミュニケーションがクローズアップされた。日本の教養主義を歴史社会学的に分析した竹内洋との対談では、教養主義とそのライバルであった若者文化の諸潮流の関係が詳細に論じられる。社会学へのカルチュラル・スタディーズ導入をリードした吉見俊哉との対談では、文理の違いを超えたカレッジ型教育の具体策が呈示されている。
三つの対談を振り返る終章で大澤自身が述べているように、「現場」と「対話」がキーワードである。読書を軸にするにしろITを軸にするにしろ、肝心なのは知識を蓄えることではない。文化的背景の異なる他者たちと対話しながら、解決すべき具体的な問題が生じている現場で、いかなるタイプの知をどう活用すべきか模索し続ける粘り強さが肝心だ。身体感覚を伴った知の実践経験が必要となる――特定の政治運動に関わる、という意味での実践ではない。「教養」はそのための準備運動だ。私自身大学教員になってから、医療訴訟に関わったり、演劇制作に参加するなど、従来の専門からかなり遠い仕事をしているうちに、それを実感するようになった。
教養主義のリハビリテーション
大澤 聡
ISBN:978-4-480-01666-9/定価:本体1500円+税/筑摩選書
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