遠くて近い江戸の村/渡辺尚志
江戸は遠くなりにけり。
これが、江戸時代を専門に研究している私の、偽らざる実感である。徳川幕府が倒れて一四〇年余り、江戸時代生まれの人はこの世に一人もいない。民俗学得意の聞き取りによって、江戸時代を復元することはもはや困難だ。
しかも、私の専門は、江戸時代のなかでも村落史、すなわち村と百姓の歴史であり、現代との距離はさらに遠い。昨今の食糧自給率の低下にみられるように、農業が基幹産業の地位を降りて久しく、都市化と過疎化によって農村の景観は大きく変貌した。江戸時代を偲ぶよすがは日々失われつつあるといってよい。授業で学生と接していても、家庭菜園レベルを越えて、農業や農村生活の体験を語れる学生は少ない。かく言う私自身も、都市部のサラリーマン家庭に生まれ、農業経験はないに等しい。日々遠ざかる江戸時代のなかでも、さらにおぼろに霞んでいるのが農村風景だといってよかろう。
その結果、学生たちの抱く百姓像は、総じて驚くほど型にはまった古典的なものである。つまり、武士に支配されてモノも言えず、年貢の重圧に押しつぶされ、食うや食わずの生活に苦しんだ末に、我慢の限界に達すると百姓一揆をおこして弾圧されるといったものである。あるいは、質朴ではあるが学問・教養とは無縁で、悪代官と結託した御用商人に手もなくだまされ悲嘆に暮れる存在といったところだろう。
これは、私が学生だった三〇年前に教わったこととほとんど変わらない。この三〇年間に研究の進展によって、村と百姓のイメージは一新されたといってよい。しかし、学界での常識と、社会の常識とが乖離しているのである。その原因が、学校教育にあるのか、ステレオタイプな時代劇などマスコミに氾濫する固定的な百姓イメージにあるのか、はたまた学生たちの江戸時代に対する知的好奇心の減退にあるのか、私にはよくわからない。しかし、研究成果を社会に十分発信してこなかった歴史研究者にも責任の一端はあるだろう。そこで、私も、ささやかながら、できる範囲で責任を果たしたいと考えて書いたのが、ちくまプリマー新書の一冊、『百姓たちの江戸時代』である。
前記の百姓イメージは、一〇〇パーセント間違いではないにしても、実像からはほど遠い。たとえば、武士が支配していたことは事実だが、そのもとで百姓たちは生産と生活の向上を実現し、一部の者は町人相手の金融で儲けてさえいたといった具合である。くわしくは、本書をお読みいただきたい。
ただし、江戸時代は、現代と意味は違うが「格差社会」であり、一括りに「明るい」とか「暗い」とか言うことはできない。富農と貧農、男性と女性、老人と子どもでは、見える世界は違ったはずであり、複数の視線を交錯させて立体的な実像を描くことが重要だ。
江戸時代の村と百姓を牧歌的に美化することは問題だが、そこから学ぶべきことが多いことも間違いない。犯罪の多発に関して、「昔は、地域社会でみんながもっと声をかけあっていた」などと言われるとき、「昔」の一部には江戸時代も入っているかもしれない。しかし、私有財産制の今日と違って、江戸時代の村では、村の領域の土地は村全体の共有物だと考えられており、そうしたあり方を基礎に、村が個々の百姓の生活を多面的に下支えしていた。セイフティネットは、基本的に村が維持していたのである。村人同士は、ただ声をかけあっていただけではなく、実質的に暮らしを支え合っていたのであり、それが現代との違いだ。そこまで知ったうえで、百姓の知恵を現代に生かす工夫が必要だろう。
遠くなりつつあるからこそ、その全体像を意識的に学ぶ必要性と意義は増してくる。問えば問うほど、村と百姓は豊かな答えを返してくれ、われわれに近づいてくる。
(わたなべ・たかし 一橋大学教授・日本近世史)
『百姓たちの江戸時代』
渡辺尚志著
詳細はこちら
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第640号24年7月号
- 第639号24年6月号
- 第638号24年5月号
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3