ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第三回(2/5)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
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豊太郎とエリスとの出会い

 さて、エリスと豊太郎の運命的な出会いの場面を考察して行きましょう。

 ある日の夕暮れ時――仕事の帰りでしょう――豊太郎は、ティアガルテンから光まばゆいウンテル・デン・リンデンを通り過ぎ、クロステル街(僧房街)の古い教会の前を通りかかりました。薄暗い、裏町の小路。そこは庶民的というよりむしろ貧しい階層の多い区域でした。彼にとってここは、今風に表現すれば癒しの空間でした。古色蒼然たる教会、それを取り巻く雑然たる庶民の生活。華やかなウンテル・デン・リンデンより、うらぶれた、狭く薄暗い巷の方が彼の心を捉えたのです。それは彼の生い立ちと関係があるのかも知れません。幼くして父を失い、母一人子一人の家庭は決して豊かではなかったでしょう。遥かな異国の地で母を思い浮かべていたのかも知れません。鴎外の生家も豊かでないというより、むしろ苦しかったと言ったほうがいいかも知れません。鴎外から見れば祖父の代にあたる人物の不祥事によって、家禄は百石から五十石へと減ぜられていたことも大きな理由でしょう。これは鴎外が東京へ出て来てからの話です。

 今一つは父の旧藩主から受ける月給が十五円であつたと云ふことで、それで六人の家族を養つて、子供に教育をして行くのは、どの位苦しかつたか知れない。博士の通つてゐる本郷壹岐坂の進文学舎で、Weberの万国史を教科書にした時、博士は始て書物らしい書物を読むことになつたのを喜んで、父にそれを買つて貰ひたいと云つた。其時父が五円の札を出して、「これは己の月給の三分の一ぢやがな」と云つて、意味ありげに顔を見たのを、博士は記憶してゐる。(『本家分家』「鴎外全集」第一六巻 岩波書店)

 「博士」というのは、もちろん鴎外のことです。豊太郎が夕暮れのクロステル巷で安らぎを覚えたというのもうなずけるところです。そして、このクロステル街で佇んで忍び泣くエリスと出会うのです。

 エリスは、一体何故に人通りの決して少なくない往来で泣いていたのでしょうか。子供ならいざ知らず、年頃の娘が人目もはばからず泣いていたのですから、これはその必要性があったと考えるのが妥当でしょう。誰かを待っていたと……。夕暮れの薄暗い石畳の小路。豊太郎のコツコツという靴音は周囲の建物に反射して明確にエリスの耳に届いていたでしょう。豊太郎が背後を通過しようとしたとき、間合いを計ったかのように突然彼女は振り返ったのです。この一瞬、濡れた青く清んだ瞳が豊太郎のハートを捉えたのです。髪の色はブロンド……。

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