ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第四回(3/4)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
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豊太郎とエリスの市民生活

 不幸にも豊太郎は母を失うことになりましたが、実質的な家長であった母の死が豊太郎を母の呪縛から解放することになり、ここで初めて男としての行動が可能となったのです。二人の交際は、家庭の貧しさの故に学校教育を十分に受けられなかったエリスの教養不足を豊太郎が補うという、いわば師弟関係からスタートします。これは横の平等の関係ではなく、上下関係であります。もともと利発な彼女は、豊太郎の適切な指導によって急速にレディに成長して行きます。

 エリスは母親とは異なり、誠実で思いやりのある人柄でした。失業した豊太郎と縁を切ってしまうのではなく、ドライな母親を何とか説得し、豊太郎を自分のアパートに呼び寄せて、同棲生活に入ります。ここには、従来のすぐにめそめそする弱いエリスではなく、主体的意志を持った一人の人間へ脱皮しようとする強いエリス像が窺えます。

 二人は少ない収入を合わせて、経済的には苦しいけれども愛に充ちた生活を送ることになります。エリスは相変わらず踊り子として勤め、豊太郎は学生時代の親友・相澤に世話してもらった通信員の仕事に精を出します。今風に言えば新聞社の海外特派員でしょう。臨時雇いですから、収入はたかが知れています。しかし、官僚社会の矛盾に強い疑問を抱いていた彼にとって、この仕事は新鮮な充実したものとなります。労働者たちの間に立ち交じり、喫茶店で新聞を片端から調べて情報収集をする。そして、「温習」を終えて帰るエリスと待ち合わせて家に帰る。豊太郎が黄色人種であることを無視すれば、はたから見れば誠に仲睦まじい新婚の夫婦に見えたはずです。

 深夜、仕事を終えて帰って来たエリスと薄暗いランプを挟んで、一方は夜なべの針仕事、豊太郎は昼間に新聞から収集した情報をもとに日本の新聞社に送る新聞の原稿を書きました。恐らく豊太郎の人生において最も充実した時期だったでしょう。微笑ましい近代の小市民の生活です。当時の日本社会ではこういう風景はあり得なかったでしょう。夫は外へ出て働き、妻は家を守り、台所で食事を作り、居間で夜なべ仕事をする。夫は書斎で仕事をするのが当時のインテリの生活でした。エリスは今までと違う生活に、充実感と将来への希望を感じていたはずです。

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