万葉樵話――万葉こぼれ話

第六回 旋頭歌はおもしろい

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旋頭歌のおもしろさ(一)

高麗こまにしきひもかたとこに落ちにける 明日あすむと言ひせば取り置き待たむ
(巻十一・二三五六)
〈口語訳〉
高麗錦の紐の片方が寝床に落ちていたことだ。「明日の夜も来よう」と言ってくれるなら、取って置いて待っていよう。

 女の歌である。前句の「高麗錦」だが、高麗こま渡来の錦の意で、最高級の織物をいう。高麗錦で作った上等な上着に縫い付けられていた紐が「高麗錦の紐」なのだろう。それが寝床に落ちていた。ならば、この前句は、女のもとに通って来た男が、きわめて高貴な身分の男であったことを暗示していることになる。到底ありえない男女の関係がほのめかされている。後句は、それに対する説明や解釈になるが、現実にはありえない貴公子の通いを、後句でどのように受けるのか、ということへの興味が、この一首を成りたせている。一種つけあいに似た妙味を楽しもうとする意識がここにある。この歌を「女集団の民謡」(講談社文庫『万葉集 三』)とする理解もある。民謡と見てよいかどうかは問題だが、基本的にそうした性格の歌であるのは確かだろう。あずまうたに収められたいなつきもみうすで精米する女。精米は女の役目で、かなりの重労働)たちの労働歌に、

いねけばかかが手を今夜こよひもか殿とのわくが取りて嘆かむ
(巻十四・三四五九)
〈口語訳〉
稲をくのであかぎれが切れる私の手を、今夜もまたおやしきの若様が手に取ってかわいそうだと嘆くだろうか。

という一首がある。これも現実にはありえない状況を想像して歌っているから、先の旋頭歌と共通する歌の場があったことの傍証になる。「明日あすむと言ひせば取り置き待たむ」という後句が付加された時、聴き手たちのこうしようも生まれたかもしれない。

 次のような歌もある。

なつかげつまの下にきぬ我妹わぎも うらけてがためたばややおほ
(巻七・一二七八)
〈口語訳〉
夏の日のかげの妻屋(新婚夫婦のための寝屋)の内でころもっているわが妻よ。あらかじめ私のために心づもりして裁つなら、もう少し大きめに裁ってくれ。

 男の歌である。夫のためにころもを仕立てるのは妻の役目で、もともとは来臨する神のために水辺で神衣かんみそを織るタナバタツメ(織女)の像が基底にある。この歌について、品田悦一氏が興味深い読みを示している。新婚らしい女の裁縫仕事を見ていた第三者の男が、夫を気取って、女に「我妹わぎも(わが妻よ)」と呼び掛け、「私のためならもう少し大きめにってくれ」とからかって歌い掛けたのだとする(「人麻呂歌集旋頭歌における叙述の位相」『万葉』四九)。この理解が適切である。男は夫よりも少し大きな体型だったのだろう。

 ここで参考になるのが、さいなつひき」である。

なつひきの しらいと ななはかりあり さごろもに 織りても着せむ まし離れよ
かたくなに もの言ふをみなかな ましあさぎぬも 我がのごとく たもとよく 着よく肩よく くび安らに まし着せめかも

 前半が女の誘い掛けで、後半はそれに対する男の答えになる。「夏引の 白糸」ははるの糸を夏につむいだもので、なつよりもずっと上質とされる。「夏引の糸で上等な絹の着物を織って着せてあげるから、あんな奥さんとは別れておしまいなさい。」という女に対して、男は「どうせお前の縫う下等な麻の着物だって、うちの奥さんのように着心地よくゆったりなんて仕立てられっこないよ。」と応じている。女の言葉もからかい半分なら、それに応じた男も愛妻自慢で相手をはぐらかしている。このやりとりの呼吸がおもしろい。この呼吸は、先の旋頭歌にも通ずる。旋頭歌の「ややおほて」は、催馬楽の「たもとよく 着よく肩よく くび安らに」のような意味かもしれない。

 そこで、旋頭歌だが、全体としては新婚の妻に対する第三者の男のからかいと見てよいが、それがわかるのは、後句が付加されるからである。前句のみでは、単に状況を提示しただけに過ぎない。後句が付加されることで、前句は「我妹」への呼び掛けになる。結果として、意想外の展開が生み出されるわけで、こうしたところに旋頭歌の表現性が現れている。集団性・口誦性はここでも濃厚である。

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