万葉樵話――万葉こぼれ話

第十回 古典を学ぶ意味

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季節は向こう側の世界からやって来る

 いまでもそうした感覚が残っているのかもしれないが、春や秋といった季節も、この世界に、どこからか、おそらくは向こう側の世界、神の世界からやって来るものと考えられていた。神と言わずに、それを季節のれい(不思議な力)の現れと見てもよい。春になると梅や桜の花が咲き、秋が深まると木々の葉が色づく。こうした現象は、この世界にいつのまにか忍び寄った季節の霊威が、花や葉にき、その結果、花が咲いたり、木々の葉が色づくと信じられていたのである。

 木の葉の色づき、紅葉は、理科の学習の中で、気温が下がると葉の色素が変化し、それで赤や黄に色づくのだと説明される。しかし、そうした理屈を知らなければ、もともと青かった葉が、誰も手を触れないのに色づくのは、不思議な現象であるに違いない。古代の人びとは、それを秋という季節の霊威が、あるいは秋という季節の神の力が、木々の葉に宿り、それで色づくのだと考えた。紅葉は、山の頂きからふもとへ、そして人びとの住むむらざとへと徐々に下りていく。山の頂きは気温差が大きいから、紅葉が早く始まるのは自然なことではあるが、しかし、古代の人びとは、山の頂きは神の世界に近いから、それゆえ早く色づくのだと考えた。そこから少しずつ、秋の神の霊威は山裾の方に下り、村里にじわじわ及んで来るのだと考えた。

 季節がやって来ることを、「春」「秋」の場合、「春立つ」「秋立つ」という。この「立つ」だが、霊的な存在あるいは自然現象が、ありありと現れ出るという意味がある。たとえば、「月立つ」「風立つ」「波立つ」などの例が思い浮かぶ。「月立つ」は新月が現れ出ること、「風立つ」は風の吹き始めることをいう。その背後には、霊的な力が感じ取られていた。「波立つ」だが、そもそも波は遠い異世界から、この世界にやって来るものとされていた。この世界には存在しない不思議なものが、岸辺に打ち寄せられることがあり、古代の人びとはそれを異世界から波に運ばれて流れ着いたのだと考えた。「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る の実一つ」という歌詞(しまざきとうそん〈一八七二~一九四三年〉作詞「椰子の実」)は、そのことをうかがわせる。あつ半島先端のみさきを舞台とした歌だが、そもそも椰子の木は日本の本土に生えてはいないから、大昔にはその実はまさしく異世界から漂着したものとして想像されたに違いない。そうした波が起こることを「波立つ」と呼んだのである。ここにも霊的な力への畏怖の念が見えている。

 なお季節の「春立つ」「秋立つ」を、漢語の「立春」「立秋」の訳語と見る向きもあるが、これは誤っている。「夏立つ」「冬立つ」という言い方が存在しないことからも、それは明らかである。古代においては、季節の基本は「春」「秋」にあり、「冬」は「春」を迎えるための長い準備(こもり)の期間、「夏」は暑熱の特別な期間とされた。四季が均等かつ対等なものになるのは、より時代が下ってからのことになる。

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