「三尺退って師の影を踏まず」

「三尺退って師の影を踏まず」――世界的に大学改革論の盛んな今日、こんな前世紀的な言葉や考え方を、誰一人支持するものはないだろう。教師も学生も、口に出すことすら気恥しいこんな言葉は、一日も早く忘れ去るにしくはない。

しかし、この言葉がかつての日本の学校制度をきびしく律していたことは確かである。三十歳以上のものなら、誰しも経験があることと思うが、小学校の受持の先生は、わたしたちにとって、全く絶対そのものであった。親よりも尊く、お巡りさんよりも怖かった。何かで呼びつけられることでもあれば、職員室の入口で、直立不動の姿勢を取り、おもむろに戸を開けて最敬礼したのち、居ならぶ先生方の視線を全身に感じながら、怖る怖る受持の先生の前に進み出たものだ。

それは一面に懐しい思い出でもある。わたしたちの学校生活は、まずそうしたリゴリスチックな空気に満ちたものであり、それを疑うことはなかった。もちろん、それがどこから来たかを、子供の頃のわたしたちが知る由もなかったが、修身と漢文と、そしてその根底にある儒教精神によるものであろうことは、誰もうすうすは知っていたし、今日もそう信じている人が多い。

ところで、そうしたリゴリスチックな精神が、本来の儒教のものでないこと――すくなくとも江戸時代以後における日本の儒学の特殊な修正であることは、すでに吉川幸次郎博士の『日本の心情』に説かれる通りであるが、博士がその根拠として挙げられる標題の言葉が、元来は仏教の書である『教誡新学比丘行護律儀』によるもので、中国本来のものでないということは、大いに興味深いと言ってよい。知られるように、『教誡新学比丘行護律儀』という本は、唐の道宣律師の著作であり、さらにその基づくところは、遠くインドの戒律の書より出ているのであり、しかも三尺ではなくて、逆に師と弟子の間隔が七尺を超えてはならぬという規定の転化なのである。

じつは、吉川幸次郎博士の『日本の心情』を読んだとき、この句の出所について、江戸時代の中期に出た禅宗の学者無著道忠が『盌雲霊雨』という本の中に、沢山のメモを集めているのを思い起して、あらためて調べてみたのだが、それによると、この語はあくまで弟子が師の後に随侍して外出するときの特殊な規定なのであり、これを一般化して、師と弟子の関係を言ったものとするのは、もともと行き過ぎなのである。

道忠によると、俗に「七尺を去って師の影を踏まず」というのは、「七尺を去らず」、「師の影を踏まず」という二つの規定を誤って一つに結びつけたものであり、唐初に編まれた仏教の一大エンサイクロペディアである『法苑珠林』という書の伽藍編の部(第五十二巻)に、僧院における師と弟子の生活について記す一段があり、それによると、『善見律』および『沙弥威儀経』というインドの律典の中に、弟子が師に従って行くとき、あまり離れすぎると、師が用事を言いつけようとしても大声で呼ばねばならぬし、あまり近づきすぎると逆にまた威儀を失する故に、「七尺を過ぎるほど離れてはならず」、「足で師の影を踏むほど接近してもならぬ」と規定したのだという。それはもともと、日中に外出する時の規定であるから、歩きながら大声で笑ってはならぬとか、道端に唾をしてはならぬとか、虫を踏み殺さぬように気をつけろ、というような、その他の細い注意と共に挙げられていて、師の影を踏まぬというのは、もっとも具体的な距離間隔の説明なのである。

言うならば、七尺をすぎず、影を踏まぬほどに歩くのは、師弟二人が道を行くときの最も適当な間隔である。

すべて、規定や形式はその意味を知ったときに、始めて生きたものとなる。僧院で何千年か守りつづけられて来た生活の型は、練りに練られたものだけあって、もっとも簡にして要を得ているが、そこから一足飛びに観念的な結論や、いわゆる東洋の英知論を引き出すことは、かえって危険である。

「三尺退って師の影を踏まず」という思想のぎこちなさは、それが儒教より出ているか、インド仏教より来ているかよりも、元来もっとも具体的な生活の規定であった一つの事例を、早急に演繹したり帰納したりしようとする貧弱な観念のせいである。排せらるべきは「三尺退って師の影を踏まず」という言葉や考えではなくて、それをリゴリスチックで窮屈なものとし、痩せ細った観念にしてしまった貧乏性そのものである。そうした窮屈な貧乏性が改まらぬ限り、民主化と言っても革新的と言っても、結局ぎこちない点は少しも変らぬ。「三尺退って師の影を踏まず」という言葉の凝り固まりを批判する側に、案外そうしたぎこちない誤りを犯している場合がありはしないか。

それは、いわゆる「禅」について、多くの凝り固まった誤解と批判が、今日はなはだ多く行われているのと同じである。

(第1巻『達摩の語録』栞より)

あしもとに気をつけよ――照顧脚下――

石庭や障壁画をたずねて、禅寺の門をくぐると、たいていの玄関の柱のところに、「照顧脚下」と書いた小さい木札が打ちつけてあるのに気づく。文字どおり、あしもとに気をつけて入れという意であるが、われわれはまずこの木札によって、無言の警告をうける。

森閑たる禅院の玄関は、いかにもこの言葉がふさわしい。はじめて禅院に入るとき、この句の与える感激は、きわめて新鮮である。靴や草履をきちんと揃えて脱ぎ、拭き清められた板縁をふんで通る心情は、すでに世俗のものではない。むしろ、きびしい参禅修行だとか、むつかしい禅録の講義はわからなくても、めいめいの履物を自分で揃えて上るところに禅の心がある。だいいち、玄関という言葉なども、もとは禅のものである。それは、最初の入門であるとともに、いちばん深い奥義の意を含んでいる。

さいきんの住宅は、特別に玄関らしいものを作らぬ傾向にあるが、床の間は無用でも、玄関は不可欠である。玄はもともと黒色や天などを意味するが、老荘の語としては、天地万象の根源となる道を指し、普通は目につきにくくて、うっかり見逃してしまうけれども、それなしにはすべてがありえぬ道理のことである。

ところで、「照顧脚下」という言葉は、中国の禅録ではあまり見かけることがない。まったくないわけではないが、古くは「看脚下」と言ったようであり、「看脚下」より「照顧脚下」への変化はかなり注意を要する。

いま、中国の禅録の中で、この言葉の用例を探すと、大慧宗杲(一〇八九‐一一六三)の場合がもっとも古いようである。

すなわち、宗という宮内庁図書寮の官吏の質問に答えた手紙の中で、かれはつぎのように言っている。

どうか、貴下自らの脚跟下に照顧して、日常さまざまの環境なるものが、いったいどこから起っているのかを反省されよ云々。(本シリーズ第17巻『大慧書』153ページ参照)

ここで大慧が、「貴下自らの脚跟下に照顧して」という原文は、「於脚跟下照顧」であり、「足もとを見よ」の原文「看脚下」とも、「照顧脚下」とも少し異るが、いずれも極めて普通の日常語でありながら、禅の心を表す点で、前者より後者の方に次第に深化しているように思われる。しかも注意すべきは、最後の「照顧脚下」という言葉が、禅の特色を表すのに、いかにも必要にして充分である点である。もともと、使いならされた日常語なるものは、どんなすぐれた作家の文章よりも、簡にして要を得ている。こうした洗練された日常語を見出したことは、禅が中国諸宗の中で、既に最も日常的な仏教になりきっていたことを示している。

さらに、この語の宋代における用例をもう一つあげよう。有名な『五灯会元』を編した大川普済の「住慶元府岳林大中禅寺語録」の上堂の末尾にいう、

今、わたしは座より下って僧堂を巡り、諸君に喫茶をすすめる、くれぐれもめいめいの足もとに気をつけられよ。

宋代の僧堂では、「各自照顧」とか、「照顧火燭」とかいう言葉が常用されていたらしい。後者は、謂うところの「火の用心」のことであるが、ここには最も具体的な事象に即して、最も深奥な道理を指示する生活文化の響きがある。「照顧脚下」という言葉が宋代の禅録に見えることの少いのは、それがあまりにも日常的であった故かもしれぬ。

いずれにしても、ひたむきに中国の文化を学んだかつての日本人は、より中国風であることを誇りとした。そのために、中国ではきわめて日常的なものが、日本ではかえって特殊なものとなった、禅院での日常茶飯の生活作法や、住持が弟子たちに与えた何でもない実用の書が、茶道や禅の書として尊ばれた。それは、何よりも禅の心を表すものとされた。

しかし、中国の禅では、心と生活とがもともとつねに一つであったのに比して、日本人は中国的な文化をすべて禅の表現と考えるようになった。この傾向は、日本人がその後中国以外の文明に接するようになっていっそう強まった。禅文化とか東洋文化とよばれるものは、じつはもっとも近代的な概念である。そこには、すでに二重の受容のゆがみがあり、国籍喪失者の悲歎を蔵している。

周知のように、『荘子』の秋水篇に、寿陵の余子の故事がある。昔、燕の寿陵の地の青年たちが、邯鄲の都に出て、都会の人の歩行を学び、未だその力を得ぬうちに、自からの母国の歩行の仕方も忘れて、ただよろよろと故郷に帰るほかはなかったという、文化と生活の乖離を笑うものである。じっさい、「足もとに気をつけよ」という警告は、とりわけ禅文化とか東洋精神と呼ばれているもの自身への、真摯な反省でなければなるまい。

以上、はなはだ説教調になって恐縮だが、じつは「照顧脚下」という言葉の、宋代におけるもう一つの用例、遂寧府西禅文璉禅師の上堂の現代的演繹である。詳しくは『五灯会元』巻二十の本文について見られよ。

(第17巻『大慧書』栞より)

「漾虚碧堂」

漾虚碧堂は、夏目漱石の書斎の号である。漱石というのは、周知のように、負けず嫌いの機智を意味する漱石枕流の故事からきている。かれが、ときに漱石頑夫と名のるのも、そのことをあらわす。かれが自から漱石と名のるのは、明治二十二年の五月、子規との交遊を示す「七艸集」以来のことで、この名は遂に生涯を通じて用いられ、晩年には書斎の号も漱石山房とよばれて、漾虚碧堂の号はあまり用いられなかったらしい。このことは、漱石枕流の故事が、晋書の孫楚伝から出て、中国ですでに漱石の名や、漱石山房の室号が用いられているなど、正当な東洋文人の系譜にのっているのに対して、漾虚碧堂という名が、特殊な禅のそれであることと関係がありそうである。

漱石は別に初期の小品集を『漾虚集』と名づけているが、漾虚碧堂という名はかれのある時期における好みを思わせ、漱石文学と禅の交渉を考えるうえに一つの手がかりとなるのではないかと思う。

漾虚碧という三字は、宋の雪竇明覚(九八〇‐一〇五二)の句からきている。すなわち『明覚禅師語録』巻二の「後録」の部分に、つぎのように言う。

上堂して云う、「春の山は乱青を畳み、春の水は虚碧を漾わす。寥寥なる天地の間、独り立ちて望み何ぞ極まらん」。便ち下座。

注目したいのは、この句が雪竇の禅の極地を表すものとして、後代の人々によってしきりにとりあげられていることである。

たとえば、嘉元三年、京都の万寿寺に住したわが大応国師南浦紹明(一二三五‐一三〇九)は、その翌年二月一日の上堂に、まず右の句を挙げたのち、「山僧此の万寿寺に住するに、恰も雪竇老人に似たり、東西に山有り水有り。今日、覚えず眸を抬げて、清興太だ遠きこと在り。何ぞ也た是の如くなる」と言い、ここで拄杖を立ててどんと一突きし、「四海五湖、皇化の裏、知らず、何処か是れ封疆」と結んでいる。

元来、日本の禅宗は宗朝のそれを輸入したのだが、気候温和な江南の風光は、上方日本人の好みに親しい。とくに、翰林の材をうたわれた明州雪竇の禅文学は、そうした中世日本人の心情に近い。むしろ、日本の禅者はそうした部分を好んで受け入れたのであり、中世日本の禅宗は、雪竇の頌古百則に基づく『碧巌集』の鑑賞とともに発展したと見られる。古往今来、宗教や哲学の書にして、詩文と交渉することの濃やかなるもの、禅家のそれにしくはない。儒家は一面に詩人であるのが、中国民族の伝統であるが、『老子』は一言の固有名詞すらなく、『荘子』は空想の翔けりゆくところ、詩の世界をはるかに超えてしまう。詩はどこまでも日常の人と自然を離れては生れぬ。

ところで、雪竇の禅文学は、春を歌うものが多い。かれの『祖英集』の、春日懐古と題する四首の一つに、「門外には春将に半ばならんとし、巌の水も暖かにして声有り」とあるのは、これにつづく転結の二句に古い故事のあるのを除けば、「袖ひぢてむすびし水の氷れるを、春立つ今日の風や解くらん」という、『古今集』の作品を思わせる。

いっぱんに、禅は季節としては秋のものと考えられやすいが、江南に発達した宋朝の禅は、春の動きと関係が深い。中世日本のそれもやはり同じ傾向にあり、秋と結びつくのは芭蕉以後――むしろ近代の偏向にすぎぬ。

北山正廸氏によると、漱石は明治二十九年十一月十五日、熊本より子規に宛てた手紙の中で、自分の書屋を「漾虚碧堂」と称し、「漾虚碧堂蔵書」の石印を、久留米梅林寺や熊本の見性寺で禅の修行をしていた伊底居士に篆刻して貰ったのだという。今日、全集に収載されている漾虚碧の印は数箇あり、それらがすべてこの時のものかどうかわからないが、先に言ったように、『漾虚集』の出版が明治三十九年であるのを見ると、この句に対するかれの関心はこの十年ほどの間のこととなる。漱石の参禅は、明治二十七年末より二十八年の正月にかけてのことで、この年かれは東京を離れて四国の松山中学に赴任し、その翌年、さらに第五高等学校の教師として熊本に来るのである。この時代の漱石は、まさしく霧の中に閉じ込められた孤独の人で、近代日本人の苦悩を代表するものと言ってもよい。かれは参禅を一度だけで打切ったらしいが、禅への関心は生涯を通じてつづく。

とくに熊本赴任の翌年、有明海に臨む風光明媚な小天を訪れていて、この時の経験をテーマにしたのが、有名な『草枕』の「非人情」の世界で、これが漱石文学の出発となるのだが、それは春の文学としての『草枕』の根底に、春の宗教としての禅があることを暗示する。

秋をうたう芭蕉系の禅は、あまりにも高く人間の苦悩を抜け出ている。漱石の求道が、近代日本の夜明けとなるのは、それが春のエネルギーを宿すものであったからだと見られぬだろうか。

(第18巻『無門関』栞より)

真実という言葉

真実、諦メ、タダヒトリ、

真実一路ノ旅ヲユク。

真実一路ノ旅ナレド、

真実、鈴フリ、思ヒ出ス。

白秋の有名な「巡礼」の詩は、山本有三の小説『真実一路』の題名の由るところで、すでに周知の一句であるが、もともと真実という言葉は、仏教の述語、真実二諦からきていて、白秋の詩もまたその意味で用いられている。

顧炎武の『日知録』によると、真という字は儒家の五経の書に見られず、老荘の書にはじまるという。すなわち、『荘子』の漁夫篇に、「真とは天より受くる所以、自然にして易うべからず、故に聖人は天に法り、真を貴び俗に拘せられず」とあり、真とは本来のもの、自然なるものであり、世俗的な作為を超えたものを指す(『東方学報』第三十三冊に収める福永氏の論文による)。ところが一方、実は虚に対して、一杯にみちること、内容があること、まこと、完全、などの意味をもつ。してみると、真実というのは、本来は矛盾概念で、自然でしかも空虚ならぬもの、絶対的究極的なものを指す。

いったい、真実という言葉をはじめて用いたのは、おそらくクマーラジーヴァである。かれは、真実を方便の対するものとし、真俗二諦の意に用いているが、やがて、中国仏教では永遠に変化せぬ存在を真にして実なるものとして、真実とよぶようになる。

クマーラジーヴァにやや遅れて活躍した曇無懺が訳した『涅槃経』(大いなる死について)に、つぎのようなおもしろい譬喩がある。

大きな村のはずれにバラ樹の林があり、その中に林に先立って生長し、樹齢百年ばかりの一樹があった。所有者は、この樹に水をかけ、つねひごろ手当てを尽くしたが、その樹は老朽化し、皮膚も枝葉もすべてみな脱落して、ただ貞実だけが残っていた。如来もまた同様で、あらゆる古びたものはすべて完全に除かれ、ただ一切の真実の法だけが残っている。

この譬喩は、のちに唐の薬山と馬祖の問答に継承され、『寒山詩』の中にもそのままの意味で用いられているし、近くは鈴木大拙先生の『一真実の世界』という名著については、すでに知る人も多いと思う。

こうして、中国仏教では、真実なるものは、主体的なもの、本来的なものとされている。それは、インド仏教で考えられた真諦の立場とも、中国の道家が主張する自然無為の世界とも異っている。インド仏教の認識論的なのに対して、道家の思推の実在論的な傾向については、よく論ぜられるとおりであるが、主体的な実存についての思索を深めたのは、ほかならぬ中国仏教の特色であり、とくに実践的な禅と浄土教がこれを代表する、白秋が、「真実、諦メ、タダヒトリ、真実一路ノ旅ヲユク」と歌うのは、そうした主体的実存としての「タダヒトリ」であり、それが真実一路といわれる所以である。

初期禅思想の背景をなす『楞伽経』は、愚かなものに指で月を示すと、指を見て月を見ず、経典の言葉にとらわれて「我が真実」に気づかぬと言い、唐末五代の禅匠玄沙師備(八三五‐九〇六)は、「我が真実」、「汝が真実」ということを強調する。それは個々の主体的事実として、もっとも実存化されたものとみてよい。

ところで、真は俗に対し、実は虚に対する。世俗的で空虚な人間の行為に対して、世俗を超えた真実を、超越的なるものに求めたのは、いうまでもなく浄土教である。たとえば、善導(六一三‐六八一)の『観無量寿経疏』巻四に、原典の至誠心(まごころ)、深心(究極の心)、発願心(浄土に生まれようと思う心)とあるのを注して、すべて絶対的真実心のこととしつつ、かれは、真実に自利と利他の二種があるうち、末世の行者は利他の行、すなわち称名念仏によるべきであるとし、至誠とは人間の自力を超えた、アミダ仏の本願の真実にほかならぬと考える。

善導の主張が、わが法然や親鸞の求道心を触発して、鎌倉仏教の新しい運動を展開せしめたことは、すでに周知のとおりであるが、由来、日本人はとくに真実という言葉を好む。道元の『正法眼蔵』にも、前にあげた玄沙の語を含んで、しきりに真実の仏法を強調しているし、真言宗とか真宗という名も、日本人の好みにふさわしい。

因みに言えば、浄土に真仮を分って、浄土真実を主張する親鸞の浄土真宗が、浄土の問題を別にすれば、もともと初期禅宗の別名であったことは、案外知られていないようである。そのことについては、いずれ『初期の禅史』第一冊で指摘するが、実践的な中国仏教の代表とされる禅と浄土の二宗が、ともに主体的な真実を追求したことの、それは当然の帰結であったと言える。

(第8巻『伝心法要・宛陵録』栞より)

「無一物中無尽蔵」

先年、川端康成氏がノーベル文学賞を受けられたとき、「美しい日本の私」と題する記念講演で、日本の文学の伝統と氏の文学とのつながりを述べ、「私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません、心の根本がちがふと思つてゐます」と結論し、その証拠として道元や明恵の歌を引いていられる。道元の歌は、「本来の面目」と題するもので、

春は花、夏はほとゝぎす、秋は月、雪さえて冷しかりけり

というのだが、それが、いわゆる花鳥風月によせて、自然と合一した人間の根源的な動きを歌っていることはいうまでもない。

「本来の面目」というのは、六祖慧能が、同門の明上座に対して、「善を思わず、悪を思わず、どれが君の本来の面目か」と問うたことからきている。善悪と言う倫理的な価値を超えた、人間の根源的な本質は何かという意味である。

キリスト教的な価値の次元と異なる人間の本質を画こうとして、近代の自然主義文学は、人間の中に潜む自然としての本能を追いつづけたが、かつての中国の哲人たちは、自然に没入し、自然に合一した人間の本質を解明しようとした。

浄土教でよまれる『大無量寿経』は、念仏して浄土に生れたものは、「自然虚無の身、無極の体を受ける」と言っている。ここで、自然、虚無、無極というのは、文献的にはすべてニルヴァーナのことであるが、道元ならば、春は花、夏はほととぎす云々と歌うにちがいない。

有名な『無門関』の第一九則、「平常心」の歌に左記がある。

春に百花あり秋に月あり、

夏に涼風あり冬に雪あり、

もし閑事の心頭に挂くるなくんば、

すなわちこれ人間の好時節。

道元が宋に渡ったのは一二二三年で、あたかもかれの帰朝した一二二八年は、『無門関』の成立の年とかさなる。道元の「本来の面目」は宝治三年(一二四九)鎌倉に出て最明寺時頼のためによんだ十首のうちの一つで、無門の「平常心」の作におくれること二十年である。いま、中国と日本にわたる二つの作品の直接関係を問う要はない。むしろ問題は、「平常心」といい、「本来の面目」という禅の没我的な思惟が、花鳥風月の世界を見出した点にある。言うならば、それはあたえられた自然ではなくて、人間的な価値の限界を尽した果てに、自らに到達された悟りなのである。近代自然主義は自然と言いながら、人間の世界に終始するのに対して、禅は人間の限界を尽した先、その向う側を見ている。それは、本当の意味であたえられたものと言っていいような、虚無の世界である。おのずからとみずからの合一するところに、本当の創造があると言ってよい。

かつて、一灯園の西田天香氏は、「無一物中無尽蔵」という言葉を好まれたという。現に天香氏がこの句をかかれた茶碗を、筆者は朝夕愛用している。

有名なこの句が、蘇東坡の詩からきていることはかねて知っていたが、残念ながら未だその出所を確かめていない。ところが、さいきんになって、矢代幸雄氏の『水墨画』(岩波新書)によって、つぎのような全詩を教えられた。

真白な絵ぎぬに何も画かぬその心情の高さよ、

もしも赤や青の色をつけるなら、分別の世界におちてしまう。

一物もないところこそ、豊かに尽きることのない宝庫だ、

花があり月があり、これを見る高殿がそこにはある。

この詩は、おそらく真白な絵ぎぬによせて、津々とわきくる作者の興趣を歌ったものであろう。矢代氏も、徳川末期の茶人藤村庸軒が唱え出した「白紙賛」とよばれる作品の実例として、この詩を引かれている。「白紙賛」とは、ただ白い紙に何の画もかかずその上に賛だけを加えたものというから、絵としては今日のアブストラクトの先駆であり、東坡の作品はさらにその先駆であったらしい。残念ながら、東坡の原作は、手許の『東坡詩集』や『善喜集』のいずれにも見当たらず、矢代氏もその出所を示されていないから、その標題を知ることができないが、有名な廬山の東林常惣との間に交わされた「山色清浄身」の詩は、やはり「白紙賛」の作者にふさわしい。

しかし、ここで見落としてならぬのは、もしもこの詩がそうした「白紙賛」に類するものであったとすれば、それ以上の発展的解釈を加えてはならぬことである。とくに、「無一物中無尽蔵」というとき、原作の「処」と「中」という二字の違いは大きい。これを見失うと、無一物と無尽蔵と、有と無を直接無媒介につなぐ即の論理や、禅と日本文化という安易な等式が生れる。花鳥風月にとどまる俳句の転落については、夙に識者のきびしい批判がある。川端氏の「美しい日本の私」に、同じような一抹の不安を感ずるのは、筆者の思いちがいであろうか。

(第6巻『頓悟要門』栞より)

「勇猛の衆生のためには」

白隠の『息耕録開筵普説』に、つぎのような一段がある。

古人云く、「参禅はすべからく三要を具すべし。一には大信根、二には大疑情、三には大憤志なり。もしこの一つを欠かば、折足の鼎のごとし」と。信根とは何ぞ。只だこれ人々見得すべき底の自性あり、徹了すべき底の宗旨あることを信ずる、是れなり。たとい信ずといえども、難透の話題を疑着せざるときは、底に透って徹了することあたわず、たとい疑団凝結すといえども、憤志もって相続せざるときは疑団破れず。この故に言う、「懈怠の衆生のためには涅槃三祇にわたり、勇猛の衆生のためには念仏一念にあり」と。ただすべからく切に精彩を着くべし。

『息耕録』は、宋の虚堂智愚の語録である。白隠は、自己の禅の系列を遡ってゆくと、ひっきょうこの人にゆきつくというので、この語録の提唱にはたいへんな熱の入れようであった。開講を記念する公開講演ともいうべきものが、右の『息耕録開筵普説』である。

白隠は、大陸で正しい参禅の伝統が絶えてしまったのは、右にいう三要を欠き、勇猛の気を失ったからであるとする。それは、かならずしも虚堂その人の主張ではないであろうが、白隠はこれこそが虚堂の禅を再興する根本契機だというのである。

ここには、二つの古人の言葉が引かれる。前者は有名な『高峰禅要』によるものだが、後者はいったい何人の語であろうか。白隠は、この言葉を好んで引く。しかも『遠羅天釜』や、『さしも草』などで、かれはこれをブッダの言葉としている。

古来この言葉に発憤し、悟りにいたった人は多い。かつて、庵原平四郎という人が、この言葉を聞いて憤起し、ひとり浴室にたてこもり、三日三晩の坐禅のすえに大悟徹底し、白隠の印証をうけた事実を、かれの弟子東嶺は伝える。

東嶺によると、庵原平四郎は『沢水法語』をみてこの句を知ったという。現存の『沢水法語』には、この句を見出すことができないが、沢水もまた公案に疑情を集中し、大憤志を発せよとおしえ、とくに抜隊の法語を読むことをすすめている。抜隊は、『無関門』を日本につたえた心地覚心の三世で、そうした主張の持主にふさわしいが、じつは『抜隊法語』にもまたこの言葉は見出されない。

白隠の禅は『無門関』系統のはげしい参究の集中と、『碧巌録』や虚堂の美しい禅文学を綜合したところに、独自の禅風を発揮したと言えようが、そのいずれの系統にも見出すことのできぬこの言葉を、白隠は何処から得たのであろうか。

『白氏文集』第四十五に、白楽天が済法師という人に差し出した手紙を収める。内容は、大乗の仏教経典のうちには、一方に方便をもって衆生の病いに応じ、さまざまの薬をあたえるものがあり、一方にはそうした方便を否定し、つねに一味の真実のみを説くものがある。まったく相反する二つの主張を、どうして同じブッダの説とするのか。納得のゆく御返答をねがいたいというのである。

惜しい哉、こんにち済法師の返書をつたえず、済法師その人についても、確かな伝を欠く。ところが、宋初に覚範慧洪なる人があり、その随筆集『林間録』の下巻に、右の白楽天の手紙と自ら済法師に代ってかれに答える書を収めている。

気のきいたことをしたものと思うが、慧洪はその返書のなかで『起信論』に云くとして、つぎのようにいっている。

世尊、勇猛の衆生のためには念仏一念に在り、懈怠の衆生のためには果を得ること須らく僧祇に満つべし。

慧洪は、これこそ先の矛盾をとくブッダの方便智であるとする。方便智とは、あたかも勇将が大兵をひきいて敵を破るのに、その意はひとえに乱をおさめて国を安んずるにあるようなもので、三乗の語に執してブッダの真意を誤るのは、まったく失の甚しきもので、とうてい共に仏道を論ずるに足りぬと断じている。

この返書によって、果して白楽天が納得したかどうか。あるいははるか西方極楽世界より、いかなる論難応酬をかえしたか、とくに「その語が典を欠くものは君子の所談にあらず」とする君子国の士大夫が、慧洪のいうとおりには『起信論』にその典を見出し得ない先の句を、果して仏説と認めたかどうか、もとより今は知るよしもない。

しかし、更に五百年ののち、わが白隠もしくはその先人の誰かが、これをブッダの言葉と認めたことは確かである。

ところが、ここにさらにもう一つの資料がある。すなわち五代宋初のあいだに仏教の一大哲学体系を完成した永明延寿は、その『宗鏡録』第十七のはじめに、右の句をやはり『起信論』に帰せしめている。慧洪が延寿によったことは間違いないが、しからば延寿は何によったのか。問題は依然としてのこるが、わが白隠をして言わしめるなら、本当の出所がそんなところにないことは、先刻承知のこと、猛に精彩を着けよ、というかも知れない。

(第19巻『禅関策進』栞より)

「七手八脚」

『無関門』の第三十五に、倩女離魂の公案がある。もと、唐代の伝奇小説『離魂記』からとったもので、この相い寄る魂のものがたりは、よほど人々の関心をひいたものとみえ、元代には、別に雑劇の一つにもなっている。

ところで、無門はこの公案の説明のうちに、「驀然として地水火風の一散するとき、湯に落ちたる螃蟹のごとくに七手八脚ならん」といっている。断末の際、肉体を構成する四つの要素が空にかえるとき、われわれはあたかも熱湯の中におとされたカニのように、もがきくるしむほかはないとういう意味である。螃蟹はカニの俗称、七手八脚は手足をバタバタさせる形容である。カニのたとえは、じつは雲門の説法からきている。

忽ち一日、眼光の地に落つるとき、前頭に什麼を将って抵擬せん。湯に落ちたる螃蟹に似て、手忙しく脚乱るること莫かれ。你が掠虚に大話を説く処無からん。(『伝燈録』巻十九)

これで明らかなように、「七手八脚」は手忙しく脚乱るる様子である。『五燈会元』の仏照徳光の説法にも、「七手八脚、三頭両面、耳は聴くも聞えず、眼は覷るも見えず」とある。この場合は、カニではなくて人間のことである。せっぱつまると、人間でも手足が八本、顔が二個あることになるらしい。

柴山全慶老師の『訓註無門関』をみると、右の句を解して、「カニが湯に落ちて死ねば、七手八脚バラバラになる」ことだとされる。平田高士氏の『無門関』(本シリーズ第18巻)は、この説を退けてデュモラン氏の独訳を引いて立証している。

しかし、『無門関』のこの句の解釈は、すでに江戸時代より二説があったらしい。そうした説が出てきたのは、ほかならぬ無門の「驀然として地水火風の一散するとき」という説明に引きずられたことと、蟹の脚がじっさいに八本あって、それを湯でゆでるとバラバラになる事実からきたようである。

かつて、博捜をもって知られた井上秀天氏の『無門関の新研究』はこの両説を批判し、とくに菅原時保老師がバラバラ説をとっているのを揶揄して、時安和尚ともある世俗通が、生きたカニを熱湯に入れたからとて、手脚のバラバラになるものでないぐらいのことを、御存じないのは実におかしいと言っている。「七手八脚」という言葉そのものは、もちろん手脚がバラバラになることではない。しかし、生きたカニが身の危険に際して、自ら手足をバラバラにする事実を、井上氏は御存じなかったらしい。掠虚に大話を説くことはやはりつつしむべきである。

記憶されている人もあろうが、昭和三十九年二月二十一日号の『週刊朝日』に、荒垣秀雄氏と酒井恒氏の対談がのっている。酒井氏は三十数年カニの研究ひとすじという権威である。

荒垣 生きてるカニを熱湯の中に入れると、自分で自分のハサミや足をはずしてしまうそうですね。

酒井 ええ、エビもやりますが、カニのほうがよく発達してます。ですから、ワタリガニなどをうでる時には、生きたのをお湯にいれちゃいけない。足をバラッと落としてしまいます‥‥‥。

荒垣 自衛本能で足を落すんですか。

酒井 ええ、自切とか自割とかいいますが、うまい仕組みです。関節をテコの原理でパッとはずす。はずれる場所がきまってる。けいれんでもおこしたかと思ってると、パラッと落ちる。器用なものです。

荒垣 またはえてくるんですか。

酒井 うでた場合はもうはえません(笑い)。生きてるうちに自切したのは、はえるんです。つかまえられたときに、パッと落して逃げるのを逃避自割、それからハサミとか足にケガをして、危ないと思ったら落す、それを防護自切といいます。一本や二本の足を落してもヘッチャラです。

江戸時代の『無門関』の古い研究者のうちには、やはり世俗に通じた人がいたのであろう。そうした事実の知識が、「七手八脚」という中国の俗語の解釈に、とんだ波紋をなげたのである。

もともと、「七手八脚」という言葉は、カニと関係があるわけではない。たとえば、七花八裂、七転八倒、七支八節、七縦八横、七擒八縦、その他、七と八というひびきのよい数字をつかった言葉ははなはだ多い。いずれも、宋代の禅録に散見するが、大ていはその数をたしかめ得ぬ動きを含んでいる。もっとも、そうした動きの価値は別のことで、七零八落といえば、もう再起の望みのないのに対して、七通八達、七子八壻、七珍八宝といえば、何かすこぶる景気がよい。就中もっとも景気のよいのは、「七倒八起」のダルマ大師で、まさしく開運の神様であるが、この解釈もまたわれわれ日本人だけのものである。本来は、くりかえして倒れたり起きたりする意であって、起きる方に重きがあるわけではない。そういえば、相い寄る魂のドラマにしても、必ずしも結ばれるとは限らぬではないか。離魂とは、やはりそうしたものである。

(第13巻『寒山詩』栞より)

「純一無雑」

『臨済録』には。感動的なことばが多い。「純一無雑」というのも、その一つである。それは、若き日の臨済の面目をあらわす。

臨済は、黄檗のところに来て三年、ただ黙って坐っていた。首座と言う指導格の先輩がたずねる。

「おまえ、ここに来て何年になる」

「三年です」

「師匠に質問したことがあるか」

「いちどもありません」

「どうして質問せぬのだ」

「何を質問するのです」

首座におしえられた通り、かれは黄檗に「仏法の大意は何か」とたずねる。黄檗は、かれの言葉の終らぬうちに棒をとって打つ。それをくりかえすこと三度、首座と師匠のはからいで、臨済は大悟する。

周知のように、『臨済録』の圧巻といっていい一段である。この書の編者は、臨済のすがたを、「行業純一」の四字によってあらわす。この語は、ラジカルな青年求道者にふさわしい。

後年、臨済は自己の思想のよって来たる先輩として馬祖道一の名をあげる。そして、馬祖は「純一無雑」で、三百五百の学生は誰もその深意を知ることができなかったという。臨済は、馬祖の「純一無雑」を受け継いだのである。

「純一無雑」の語は、すでに『馬祖語録』に見える。

経典にいう、〈自己にめざめ、根源を知るから、名づけて沙門という〉と。その名が等しく、その義が等しく、あらゆる諸法がすべて等しく、純一無雑であることだ。

等しいというのは、いっぱんに二つ以上のものについていう。いまのばあいも、名と義とが等しいと解してよい。しかし、等には、斉の意がある。身を整え、心を調えるのが禅である。沙門とは、諸法がととのって、「純一無雑」であるのをいう。それは、人間のもっとも充実したすがただ。ラジカルな人間は、すべて等しい。

「純一無雑」のもっとも古い例が、『法華経』の序品にある。

そのとき、ブッダは『無量義経』をときおわって、さらに深い瞑想に入り身心不動である。眉間より白毫相の光を放って、東方万八千の世界を照す。そこに下は無間地獄より上は色界の最上天にいたるあらゆる存在のすがたが現出する。なみいる大勢の弟子たちは、その不可思議におどろく。文殊が、その理由を説明していう。

いまや、世尊は大法の雨をふらせ、大法の螺を吹き、大法の鼓を打ち、大法の義をのべられるにちがいない、われはすでに過去の諸聖が大法をとかれるとき、やはりこの光明ありしことを見た。

こうして、文殊は無量無辺不可思議アソウギ劫のむかし、日月燈明如来が妙法を演説された様子を想起する。

初めも善、中間も善、最後も善で、その義は深く、その語は巧みで、純一無雑、完全円満で、清白にして聖行のすがたがあった。

これら七つの形容は、中国の仏教学者によると、ブッダの説法の徳性であるという。「純一無雑」ということは、それら七つに一貫する。この語は、他の経典の序にも例がある。宋の元照律師のごときは、念仏をもって「純一無雑」の行であり、円頓大乗であるといっている。円頓とは、完全で根本的だという意である。それは、親鸞の『教行信証』にも引かれる。

「純一無雑」というと、われわれはとかく無神経な潔癖症、もしくは道学先生のリゴリズムを連想する。日本人は痩せたソクラテスに弱い。

しかし、臨済のばあいは大いにちがう。たとえば、かれは種々の修練や、持律持戒をしりぞける。二十五里の雑踏を、満々とつがれた油の皿をささげて、一滴もこぼさないで通りぬけた人の神技を、かれは眼の開かぬものと断ずる。また、深山幽谷のうちに行いすまし、日夜眠ることなしに礼拝と念仏をつづける修行者を、かれは地獄ゆきの道だと難ずる。それらは、すべて雑行の末にすぎない。かれは、「如かず、無事にして純一無雑ならんには」といっている。「純一無雑」とは、画一化のことではない。凝り固まってはならぬ。むしろ、そうした凝癖さを捨てることである。あるいは深く蔵して外にあらわさぬことである。無事とは、痩せた清貧のそれではなくて、貴人の無事でなければならぬ。ここには、抜かざる宝刀の気品がある。

わが道元は、臨済が黄檗の下に来て三年、何を質問すべきかも知らなかったと笑う。「知らず、この何かを問わん」と首座に答えた若き求道者の語気に、道元は気づかなかったらしい。

将軍に比せられる臨済の魅力は、大機大用とか、全体作用とかいう外に表れた行動よりも、「純一無雑」の高貴性にある。

「純一無雑」ということばは、『臨済録』一巻の序品である。そしてまた結論である。

(第2巻『初期の禅史Ⅰ』栞より)

凡僧と梵僧

『楞伽師資記』の序に、編者浄覚が自分の師にあたる玄賾の風貌をのべるところがある。

和上乃形類凡僧、証同仏地。帝師国宝、宇内帰衣。――先生は外見は平凡な僧のようだが、さとりはブッダの境地に一致していて、天子の師匠、朝家の宝として、国中のひとびとが、帰依している。(本シリーズ第2巻『初期の禅史Ⅰ』57‐58ページ)

わたくしは、この口語訳をつくる時躊躇した。そして、玄賾は同門の神秀にくらべて、あまり風采があがらなかったのだろうと思った。時の文豪張説がかいた神秀の「碑銘」には、次のようにある。

身長八尺、秀眉大耳、応王伯之象、合聖賢之度。(『張燕公集』十四)

神秀につづいて、帝師国宝となった玄賾が形類凡僧ではつりあわぬ。これでは、問題は外形でなくて心だというほかはない。浄覚のことばは、複雑な心情を秘めているようである。

老子は、「大巧は拙なるがごとし」といっている。一見つまらぬ人が、高い価値をかくしもっているのである。クマーラジーヴァが訳した『大智度論』にもこういっている。

ブッダの身ははかりようがなく、あらゆる世間的なものを超えているが、人人のために姿を現ずること、凡人のごとくである。

これはまさしく老子の「和光同塵」の思想である。凡人の形をとった聖者と言う考えは、浄土教にも存する。形類凡僧ということばは、かならずしも異とするに足りぬかもしれぬ。

しかし、さらに翻って考えたい。聖者が凡人の姿をとるといっても、凡人がそのまま価値なのではない。外なる凡は、内なる聖のすがたである。それは、内外ともに聖である以上に聖的だというのでなければならぬ。そうした考え方はどこから来るのか。

凡は、広いもの、たくさんあるもの、なみのものを意味する。凡夫は衆生のことである。多数に価値ありとする思想は、人類の発生とともに古い。しかし、凡はまた凡庸であり、凡愚であり、凡俗である。十人なみは、そのまま価値ではない。価値はつねに非凡でなければならぬ。平凡をよしとするのは、ながく凡を超えたものであった。凡はどこまでもあらためらるべきである。

してみると、価値あるものは、外も内もともに希有でなければならぬ。すくなくとも、自分の師匠をほめたたえるのに、外形が十人なみだということを、ことさらに徳とすべきではあるまい。

『楞伽師資記』の校正をおわって、わたくしにはなお一抹の気がかりが残った。訳文の生硬さは仕方ないが、内容的に、はたして原作者の意に反しなかったかどうか。その後、ふとしたことから『続高僧伝』巻二十五の円通伝に、つぎのような句があるのに気づいた。

眉面峯秀、状類梵僧。

これは、眉がたかく顔がみごとで、あたかもインド僧そっくりという意味である。その人は、あるいはじっさいにインド人に似ていたかもしれない。しかし、問題はそれが眉面峯秀の対句になっている点である。

凡と梵と、その字音は通じないが、字形はすこぶる混じやすい。中国の仏教者にとって、梵はつねに価値の標準であった。梵僧は、おなじ意味をもつ胡僧の場合とは語感が異る。

浄覚の原文は、きっと形類梵僧であったのだろう。玄賾が神秀にくらべて短陋であった証拠はない。かれもまた眉面峯秀であったにちがいない。すくなくともおのが先師の風貌をかたることばは、かくあってしかるべしである。

わが泉涌寺の俊芿は、唐の禅月大師がえがく羅漢像をつたえた人として知られる。かれの弟子がかいた「泉涌寺不可棄法師伝」は、俊芿が宋より帰るに際して、臨安府開化寺の比丘尼正大姉より、羅漢像をおくられたいきさつをのべて、第十七慶友尊者の顔つきが、俊芿そっくりなのに感激したためであるという。日本の仏教者もまたインド僧のごとくあることを徳とした。それは希有のゆえに貴ばれた。西来の胡僧にはじまる中国の禅宗は、ひとしおインド僧の風貌を価値としたはずである。

古来、インドの仏教者は、体格が立派であり、人なみならぬ特色をもつことを条件とした。ブッダは、三十二相・八十種好をそなえたといわれる。羅漢像はいずれもそうした大人の相をあらわす。容貌は悟りのすがたにほかならぬ。

梵と凡の混同は、あるいは敦煌写本の偶然にすぎぬかもしれない。しかし、わずか一字の差であるが、上下の二句を屈折ととるか、同格ととるかによって、理解はまったく逆となる。

平凡なもの、ありふれたものを価値とする思想は、上下の句を屈折させるよりも、連続させることによってよりいっそう深まりはしないか。単純で明快な初期の禅録は、ぎくしゃくした後代の禅の論理をできるだけもちこまずに解したい。

(第9巻『禅源諸詮集都序』栞より)

仏界入り易く魔界入り難し

『美しい日本の私』のなかで、川端康成氏は一休の墨蹟のことにふれて、

仏界入り易く魔界入り難し

という句をとりあげ、「私は深くこの言葉に惹かれる」といい、揮毫を頼まれるとこの句を書くことがあるとも言われる。

いかにも日本人好みの句である。近世では大愚その他の墨蹟もあり、白隠の『槐安国語』にも見える。さらに、古く一休と同時の人で、妙心寺の六祖とよばれる雪江宗深(一四〇八‐八六)もまたこの句に注目した一人である。

『雪江語録』に竜安寺殿秉炬の一文があり、かれはそこにつぎのように言う。

仏界をいでて魔界に入るとき、三千の仏国を婬坊酒肆に置在し、菩提を喚んで煩悩と作すところ、百億須弥を邸店市廛に抛擲す。

竜安寺殿は応仁の大乱の一方の将細川勝元(一四三〇‐七三)のことで、石庭で知られる竜安寺はこの人の開創である。秉炬は火葬のたいまつをとる意で、これは雪江が勝元を祭る言葉の一節である。

雪江は、ここで勝元が仏法と世法を一如とする困難な修行を実現し、大力量を発揮したことをほめる。仏界が世俗を超えた清浄世界としてある限り、そこに到ることも或いは容易であろう。しかし、そうした仏界への逃避が許されぬ戦乱の世には、婬坊酒肆や邸店市廛のうちに清浄世界を実現しなければならぬ。勝元はそうした困難にうちかち、あえて仏界を出でて魔界に入り、菩提を煩悩と喚び作したというのである。薄幸に終った将軍の霊をなぐさめるには、そうした思いやりが必要であった。ここには、煩悩を離れずして涅槃を得と言い、魔界を出でずして仏界に入ると説く、『肇論』や『維摩経』の思想が容易に看取できる。この二つの仏典は、かつて乱世に生きた中国民族のはげましであった。

ところで、雪江下のすぐれた弟子の一人、景川宗隆の語録の上堂にいう、

古人いわく、仏界入り易く魔界入り難し、と。且らくいえ、仏界と魔界と甚麼の間隔がある。寰中は天子の敕、塞外は将軍の令。

景川は、ここで仏界と魔界を並列し、天子と将軍に配する。そのことの当否は別として、かれのいう古人は、いったい誰を指すのであろうか。

先にこの句を日本人好みといったが、じつは中国から来ているらしい。つぎに引く宋初の人、兜率従悦と清素侍者との問答が、おそらくは共通のソースであった。もともと、勝元の竜安寺は、隆興府竜安山兜率寺の名からきている。

従悦は真浄克文の弟子で、克文は黄竜慧南(一〇〇二‐六九)に嗣いだ人である。ところが、清素は黄竜慧南と同門で、かつては石霜に参じながら、生涯あえて寺をもたず、長く侍者としてすごしたのち、遊方と行脚のうちに終る。かれはある時、石霜の郷国から来た荔支を介して従悦と相い知り、その悟境を評して、

以て仏に入る可きも魔に入ること能わず

といい、従悦がその意をただすと、「豈にいうを見ずや、末後の一句はじめて牢関に到るを」と教え、ついに従悦を大成せしめる。紹興乙亥(一一五五)の序をもつ、『羅湖野録』の伝えるところだ。

清素から見ると、従悦の悟りはまだ仏界への片道通行で魔界に入ることはできなかった。魔とは仏の反価値である。禅は単なる本体論ではない。価値の分裂を止揚するものではなくてはならぬ。清素が末後の一句といったのは、おそらく石霜のそれを指す。黄竜は石霜に参じながら、早くその師を辞したために、奥義をきわめていないというのである。してみると、臨済の七世にあたる石霜の奥義は、ひっきょう魔界に入る修行にあった。

一休もまた清元素を尊敬し、仏界と魔界のことを問題にしている。『狂雲集』は、その開巻劈頭より素侍者をテーマとし、ほかにも独立にこの人のことをとりあげる詩がある。かれの墨蹟は、そうした背景をもっている。大げさにいうと、応仁の乱に前後するわがくにの禅界は、魔界の問題を公案としていたとおもわれる。

そうした推定と関係があるかどうか判らぬが、わたくしはわれわれの祖先が犯した『臨済録』の誤読の一つを思い起す。

すなわち示衆に、臨済は当時の修行者たちが道理をわきまえず、あたかも鼻すり羊が行きあたるものをすべて口中に放りこうむように、奴隷と主人、客と亭主の区別もつかぬと罵ったあと、

如是之流、邪心入道、鬧処即入。不得名為真出家人、正是真俗家人。

ときめつける。日本における伝統の句読は、鬧処即入不得を一句として、名為真出家人を反語によむ。しかし、それは到底不可能である。

右の句読の誤りは、先ほどからとりあげている魔界の問題に関係して、鬧処つまり婬坊酒肆に入ることが真の出家の奥義だと邪推したことによるのではなかろうか。そう言えば、雪江が「仏界を出でて魔界に入る」とするのも気になる。僧肇では、「仏界を出でずして魔界に入る」とあるからだ。

(第10巻『臨済録』栞より)

古人刻苦光明必盛大

西田幾太郎の「寸心日記」を見ると、つぎの句が二度ならず表紙の裏に書かれているのに目がとまる。

昔慈明在汾陽時、与大愚瑯瑘等六七人、結伴参究。河東苦寒、衆人憚之。明独通宵不睡。自責曰、古人刻苦、光明必盛大也。我又何人、生無益于時。死不知于人、於理何益。即引錐自刺其股。

明治三十年より末年ごろまで、若き西田幾太郎がこの句を日新の銘として参禅にはげんだことは、「寸心日記」の随所に読みとられる。それはまた近世以来の、禅門をたたいた多くの青年たちの共通の心情であった。

臨済宗の僧堂では、今日も接心その他、機会あるごとに、右の句を含む隠山の「亀鑑」を読むのが通例である。古人刻苦以下の九字を筆太に書いた白隠の墨蹟を記憶している人も多いであろう。かつて、若き白隠を発奮させたのは、『禅関策進』に含まれるこの句であった。我国で、はじめて『禅関策進』を覆刻した東嶺は、とくにそのことを跋に書いている。近世の日本臨済禅は、この句とともにはじまったといってよい。東嶺は白隠の弟子であり、隠山は白隠の三世に当る。

『禅関策進』の編者がこの話を何からとったのかは明らかでないが、この話の初見は、今のところ東呉沙門浄善が重集した『禅林宝訓』巻四の記載のようである。『禅林宝訓』の編者はその出所を『西湖記聞』によると記し、水庵が侍郎尤延之に語ったところとする。『西湖記聞』のことも明らかでないが、水庵は円悟克勤の三世で、尤延之は有名な『遂切堂書目』の編者である。おおよそ南宋初期ごろの記事とみてよいであろう。

いったい、白隠がこの句を知ったのは『禅関策進』によるといわれるが、「古人刻苦云々」の句を含む話そのものは、『禅林宝訓』によっているようである。大愚以下の人物も後者に合して前者には合わぬ。今、そのことを追及するつもりはない。問題は、『禅林宝訓』より先にこの話を伝えるものが見当たらぬ点である。もともと、宋初の禅宗史は、覚範慧洪の『禅林宝訓伝』を第一とする。慈明の伝は、この書がもっとも古い。また慈明の語録は、弟子慧南が天聖年間に編したものを最古とし、他にも別本を伝えるが、いずれも右の話を収めるものがない。

慈明がその修業時代に、大愚や谷泉らの道友と伴を結んで汾陽を訪ねたことは確かである。汾陽のいた河東の地が耐え難い寒苦で聞えたことも事実である。かれが眠りを防ぐために、自から錐を引いたことももちろんあり得る。ただ、かれがそれほどまでに切急に自己をはげましたとき、その日進の銘とした古人刻苦云々の故事は、いったい誰を理想としてであろうか。ここで思い合わされるのは、「錐を引いて股を刺す」という言葉が、すでに『戦国策』に収める蘇秦の故事から来ていることである。

蘇秦は、戦国時代の有名な合従連衡の遊説家である。その伝記は、『史記』巻六十六に収められる。かれは若くして郷を出たが、学成ならずして帰り、兄弟や嫂妹妻妾に笑われたことに発奮し、遂に室を閉して書をよみ、期年にして揣摩の術に達したといわれる。揣摩の術は、談笑のあいだに相手の心を把む読心術である。かれが錐を引いて自からはげましたのは、そうした伶仃苦学のときのことであろう。蘇秦の伝としてまとまっている『史記』は、右の句を収めぬ。しばらく、『戦国策』の秦策の原文を見よう。

蘇秦、書を読んで睡らんとするや、錐を引いてその股を刺す。血流れて足に至る。

慈明が自から激励して、古人刻苦というのは、おそらく蘇秦の故事を指す。仏教史もしくは禅宗史の書に、そうした先例を見出すことはできない。強いて求めるならば、慧可断臂の話である。しかし、「我又何人」以下の言葉は、蘇秦のそれにふさわしい。だいいち、「生きて時に益なく」というのは、出家沙門の語ではない。「死して人に知られず」に至っては、なおさらのことだ。要するに、慈明の言葉には世俗的儒教的な匂いが強い。それもすこぶるリゴリスチックな一面だけを示す。概して言えば、儒教がそうした傾向を強めるのは、中国よりも日本においてである。江戸時代に起った白隠禅は、同じ傾向にあったといえる。

一休もまた慈明という人物に深い関心を寄せているが、彼の画く慈明像はすこぶる人情に富む。寺の近くにいた一婆子のもとに、慈明が心親しく通った話を、一休は一再ならず詠じている。もちろん、それは晩年の慈明のことで、汾陽のもとで修業したころの話ではない。しかし、総じていえば、中世の日本人が画いた慈明像は晩年のそれに傾く。人情を絶する修業時代の逸話は、近世人の感覚に近いようである。慈明引錐の話は、痛烈は痛烈であるが、唐より宋初にかけての禅の体質に似ない。

ひっきょう、史実とはそのことにかかわる人の問題である。禅的なかかわりなしに、禅語が存在するわけではない。

(第11巻『趙州録』栞より)

「羊二十口」

禅の本といえば、何か難しいもの、わけのわからぬものと考える傾きがある。理由のないことではないが、わかるものまで難しく考えすぎると変なことになる。

眉をあげても、眼を動かしても、アクビしてもセキバライしても、すべて仏事だと経典は説く。禅問答のうちにも、駄洒落あり、野次あり、ユーモアがある。謎をかけて相手をひっかけたり、半畳を入れて快とすることがあって差支えない。禅は、日常の言行すべてにわたる。それらに特に禅的解釈を加えると、かえって日常性を失いかねまい。

禅の古典とみられるものから、今はそんな謎かけに類する問答の二、三をとりあげてみたい。いずれも単なる言葉の遊びであって、それ以上でもそれ以下でもない。

まず、『祖堂集』巻三の南陽忠国師の章に左記がある。一日、馬祖の弟子の伏牛が師命を帯びてやってくる。馬祖がいつも「即心即仏」と説いていることについて対話があり、さいごにこんどは伏牛が忠国師にたずねる。

「さて、こちらではどう説かれる。」「三点、流水のごとく、曲は禾を刈る鎌に似たり。」ある人が、このことを仰山に伝えた。仰山はいう、「水中に半月が現れた。」又いわく、「三点、長流の水、身は魚龍の衣に似たり。」

前半は、『伝燈録』巻七の伏牛の章にも見える。後半は、『祖堂集』にのみ伝えるオマケである。いずれも「心」という感じの形をめぐる謎かけである。古来、字謎とよばれる隠語の一つとみてよい。要するに、漢字の伝統が生みだした言葉の遊びである。遊びごとのゆえに、これを禅問答の堕落だと考えると、それも一つの解釈に堕ちよう。遊びは遊びとしておきたい。

南陽と伏牛の問答は、のちに宋末の虚堂智愚に引きつがれて、「横鈎三点、似月如星」の名句を生む。そこには、『詩経』にもとづくという心星のイメージがもう一つ加わる。今は北宋初期の名匠、大覚禅師懐璉の場合を見よう。『羅湖野録』巻上に、つぎのような記事がある。

仁宗の皇祐子四年十二月九日、浄因十方禅院の懐璉のもとへ中使が派せられた、「才去って払を堅つ、人立って当り難し。」璉はちょうど大衆とともに晨粥の途中であった。中使に粥を供したあと、次のような頌をつくって回答とする、「節有り、竹に干わるに非ず、三星、月宮を繞る。一人、日下に居す、衆人と同じきに弗ず。」

帝は大いに悦び、さらに頌の応酬がつづくのだが、仁宗の下問は、いうまでもなく「佛」の字の謎かけで、懐璉の回答は「即心是仏」を四句に配したまでのこと。とくに第二句は、南陽の句や『詩経』の伝統をうける。それは、かつての忠国師と唐の肅宗との交遊を、現在の我が身に比する意を秘めている。第三句の日下は帝城のことであり、一人はいうまでもなく仁宗を指す。

もともと、仁宗と大覚禅師の交遊は、宋代全額の好話柄であった。『林間録』や『禅林僧宝伝』には、そうした記事が多い。右の字謎には、そうした背景を考えておく必要がある。すでに先に見た仰山の言葉にも、南陽忠国師の典雅な帝都仏教に対する、祖師禅の皮肉がほのみえる。

もう一つ、『禅林類聚』巻二の仏祖門に見える謎の問答を引いておく。

広徳禅師にある僧がたずねる、「如何なるか是れ仏。」師いわく、「画戟門開いて墜僊を見る。」僧はこれを城中の悟空にただす。悟空いわく、「たとい親しく釈迦に会い来たるとも、智者は咸な云う是れ仏にあらずと。」広徳はこの言葉をきくと、遥かに城中に向って礼拝する、「悟空古仏、豈に止だ羊二十口のみならんや。」

広徳は洞山良价の三世で、唐末五代の人。詳しくは襄州万銅山広徳延禅師である。『五燈会元』巻十三にもこの問答を収めるが、後半の悟空に関する部分がない。今はまず、最後の言葉に注目したい。

羊二十口とは、要するに「善」の字の謎である。善逝は仏の十号の一つ、至善に止まるのが君子の徳である。そして、悟空古仏は善以上だということらしい。しかし、その言い方は、羊二十口を供して供養する以上だというのである。あくまで、字面の面白さに注目しなければならぬ。そして、広徳の最後の言葉が、そうした性格のものであってみると、はじめの「画戟云云」の句もまた単なる字面以上の謎をもっているように思われる。悟空が決して「是れ仏にあらず」といっているのは、確かにそのことを暗示する。

それにしても、「画戟云云」のどこが、仏の答えとなるのであろうか。今は私案を差しひかえよう。ただ一つ、元雑劇に「馬丹陽三度任風子」というのがあって、その第一折の「天下楽」に、「画戟門排見酔仙」の句があることを注意しておく。つまり、すでに一つの成語であり、それ自らの世界をもっているのである。

因みに「酔仙」については、諸橋轍次氏の『大漢和辞典』に解があり、元雑劇「任風子」のことは、京都大学人文科学研究所の共同成果が、戦争中の古い『東方学報』に収められている由である。

(第7巻『龐居士語録』栞より)

「死して厳根に在れば骨も也た清し」

先年、「アサヒグラフ」で見たインドのヒンズー行者の記事と写真は、わたくしにとってショックであった。ガンジス川の岸辺で、やがて死にゆく老人が、こもをかぶって背中を地につけ、天空を見つめるようにして瞑目しているすがたは、わたくしの浅薄なインドの知識を、はるかに超えるものだった。今なお、あれを思い起すだけで、鼓動の容易におさまらぬことがある。

インドとは、恐ろしいくにである。ブッダを生み、ガンジーを生んだこのくには、今もなお無数の裸の思想家が生きつづけている。すでに死を予期した老人は、みずから岸辺にやってきて、あんなふうにして死を待つのだという。こものうえには、通行人の投げた銅貨がちらばっている。老人の息が断えると、誰かが銅貨をあつめて死体を火葬し、骨を川に流すのだという。

『坐禅三昧経』をよむと、不浄観とか白骨観とよばれる瞑想の仕方が細かに書いてある。塚原や墓地のあちこちに、無数の死体がころがっている。不浄観を修めようとする者は、それらの一体を選んで近くに席をしめる。死体が膨張し、変形し、壊滅して、しだいに髪や皮膚が風で飛び散り、骨が雨水に洗われて露出した後、太陽にさらされて土に化する過程を、何か月もじっと見守るのである。食事や用便のために、しばらく席を離れることがあっても、死体のすがたが眼底に焼きついて、瞬時も去らぬように工夫せよという。愛欲の空しさを、如実に観察するためである。

しかも、そんな観察をはじめるには、あらかじめ被観察者にたのんで、その許可をとっておくことが必要だという。文字どおり、生死を看とるのである。わたくしは、そんなお経の記述に今まであまり実感が涌かなかったのだが、例の写真に接してから、小乗禅とよばれる瞑想法が、妙に肌身にせまるのである。そんな風習が今なお日常のこととして続いているらしい、インド民族の精神の強さを考えると、洗練された大乗経典や禅の語録だけを読んでいたのでは、とうていわかりっこない世界が残るのではないかと思える。大乗経典や禅の語録の方も、果してどれだけ読めていたのか。本当に背すじが寒くなってくるのだ。

風は飛泉を斯いて攪いて冷声を送る、

前峰月上って竹窓明らかなり。

老来殊に覚ゆ山中の好きことを、

死して巌根に在れば骨も也た清し。

わが永源寂室の、もっとも周知の作品の一つである。田辺元博士が晩年、『寂室語録』の古版を求めていられると聞いた。今にしておもうと、おそらくこの作品が目あてであったかもしれぬ。ただし、この詩は寂室中年のもので、老来以下の二句は一つのフィクションである。禅の詩としては、それでようのだが、問題はさいごの句である。この句は、これまで「死して巌根に在れば骨も也た清し」と読まれる。作者もまたおそらくは訓読によって、然か読んだにちがいない。われわれの眼前には、巌根の清流に洗われて横たわる透明な白骨のイメージがある。死を清冽なものとみるそんな発想は、「死して巌根に在り」と読むことと関係しないであろうか。死よりも、在の字に重みがかかっているのである。

じつは、在の字は動詞ではなくて、死の字に接して「於」と同じような働きをする虚字である。簡単に「巌根に死す」と読んでいいのである。

『臨済録』のはじめの上堂のところに、礼拝する僧を臨済が一喝すると、「老和尚、深頭なること莫くんば好し」と応ずるその僧に、「什麼の処にか落在する」ときめつける一段がある。おまえ何処に落ちたか、という意味である。かつて、落在の二字の訓詁のために、在字のつく語を調べたことがある。

没在、墜在、生在、死在、行在、住在、坐在、集在、閉在、葬在、搭在、掛在、睡在、預在、留在、その他

用例は、いずれも仏典と語録にあるもののみで、外典に及ばない。搭在や行在は外典にも見えるが、元来は翻訳仏典にはじまる言葉のようである。

鴨山の岩根し枕けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ

柿本人麻呂の辞世である。その死が凄惨な刑死であったこと、鴨山の地が山中ではなくて海辺であったことの吟味は、梅原猛氏の執拗な追跡にまかせる。わたくしは、そんな凄惨な最後をも、清流の洗う岩根の美しい死とみる日本的発想が、すでにここにあるのに驚く。

行き倒れ、野垂れ死を日常生活の自然な最後とするインド民族と、それを以上とみる日本人の死生観のあいだに、大きなちがいがあるのである。「海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍」というのもそれだ。死在という言葉を強いて重々しく読もうとする日本的感覚もまた、おそらくはその一端であろう。そう言えば、蓮如の白骨のお文も、一休の骸骨も、ことさらに死を強調しようとする傾向が気にかかる。それをしも、日本的霊性と呼んでよいのだろうか。

(第16巻『信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』栞より)

柳緑花紅

柳は緑、花は紅とは、古今集の名句だそうで御座い升が、昔江戸は芝の切通しに柳屋と申す古道具屋が御座いました。或日其処へ一人の禅宗坊主が通り掛りました。店先にあつた毛抜を手に取つてぢつと見て居りましたが、主人に向ひまして「オイ、此毛抜はよくくふか」と尋ねます。主人は原来禅学好の者で御座いましたから、其お客を禅宗坊主と見て「本来空」と答へます。坊主それを聞升とにつこり笑ひまして、「くふならは只くれなゐのはな毛抜、みどりにしやう柳屋の店」と云ふ狂歌を一首詠じて代価も払はず、其儘持去つて仕舞ひました。流石は柳屋の主人、後を見送りまして店の番頭に、「長兵衛あのお客は達磨大使の化身に相違ないょ」と申します。番頭は怪訝な顔を致しまして、「へェそりゃ又何故で御座います。」主人抜からぬ顔して、「おあしが無いと見えるからさ」

柳緑花紅の四字が『古今集』にあるわけではないが、この句を達磨と結びつけて、禅の代名詞みたいに考えるのは古今のことだ。ときに、江戸時代にはそんな観念がすっかり定着している、浮世風呂や浮世床で知られる式亭三馬などにも、遊里を意味する花柳の語とむすびつけた、達磨賛という狂歌がある。一見いかめしい禅坊主をコケにひた作品である。

もともと、この句が禅の一枚看板になるのは、中世以来の謡曲のせいである。「山姥」や「径山寺」「放下僧」「芭蕉」などはその代表である。下って、一休咄や諸国物語図絵がこの句をさかんに使うのも当然だ。一休その人の辞世の偈にもすでにこの句が見えている。

私の知るところ、日本ではじめてこの句を使ったのは、『大応国師法語』である。大応は本来歴然の意に用いている。

大応につぐ大燈もまた『碧巌録』第三則のコメントに同じ意味でこの句を使う。大燈と同時の人、瑩山紹瑾の『報恩録』にも見える。

こうした解釈が、中国のそれをうけていることは言うまでもない。これまで、この句は蘇東坡の「柳緑花紅真面目」によるというのが通説であった。わたくしはいまだその所在を確かめていないが、この人の禅に関する作品を集める『禅喜集』には見当たらぬようだ。ひょっとすると、蜀山人のいう『古今集』の類かもしれないが、この句が蘇東坡にでるという気分は確かに読める。つまり、北宋初期の文字禅の匂いが濃いのである。

一方、江戸時代に集められた『禅林句集』の注によると、この句は『川老注金剛経』より来ているという。確かに、離相寂滅分第十四の「又念ずるに過去五百世に忍辱仙人と作り云々」のところに、つぎのように言っている。

目前無法、柳は緑、花は紅なるに従教す。耳畔無聞、鶯の吟じ燕の語るに一任す。

これは、見て見ず、聞いて聞かぬ無分別の境地を言ったもので、忍辱仙人の無我無人の心を言うのにふさわしい。経典の原理の抽象におちず、色声の実感にうったえるところ、すこぶる中国的思惟の妙をつくす。川老もまた北宋初期の人、黄龍慧南と同門の翠岩可真の五世で、東坡よりやや後輩である。

さいきん他の必要があって、『天聖広燈録』をみていたら、つぎのような問答のあるのに気付いた。巻第三十、真州定山惟素山主の章である。この人は、廬山栖賢燈諟の法をついでいる。燈諟は法眼の三世で、若き日の黄龍がかつてこの下に参じて苦修したことは有名である。

問う、如何なるかこれ一味法界。師云く、花は紅、柳は緑。進んで云く、如何なるかこれ定山の路。師云く、峭。進んで云く、履践する者、如何。師云く、嶮。

一味法界とは、唯一実在の意、峭は静寂、嶮は怖ろしいことである。いずれも、一味法界を自己の眼に見、耳に聞いた人の感動をあらわす。してみると、花紅柳緑もまた単にうららかな春光に酔う意ではあるまい。花はどうして紅いのか、柳はどうして緑いのか。人の分別を絶する恐ろしい本来歴然の真理を、まのあたりみてとった男の言葉でなければなるまい。今のところ、柳緑花紅の四字を独立して使った例は定山惟素を最初とする。

いずれにしても、中国の禅ではじめてこの句が生れた頃と、これを受けいれた日本人の理解は、かなりちがっているようだ。インド民族が教えた経典の理を、ひたたび日常化した中国禅の成果を、ふたたび一種の経典としてうけいれなければならぬ日本仏教の屈折した気分を、この短句はすでに含んでいる。それを見落とすと、単なるコケにおちてしまう。

さいごに一つ付け加えておこう。宋代より民間に流行しはじめる仏教説話文学の一つに『黄山宝巻』というのがあって、そのはじめにすでにこの句が見えている。謡曲や江戸の戯作者たちは、おそらくこれを知っていたとおもわれるが、わたくしはまだ細かにあそのことを考える機を得ていない。

(第4巻『六祖壇経』栞より)

心頭を滅却すれば火も自から涼し

天正十年四月、織田信長に攻められて、甲斐の武田氏が滅亡したときのことである。武田勢の一部が、慧林寺に逃げこんで身を隠す。信長は怒り、山門に火を放つ。百人あまりの僧が焼死する。山主の快川紹喜が、もえさかる楼上に坐して、「安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自から涼し」と、一偈をのこして火定に入る。壮烈な禅僧の死にざまとして、この話は今も広く人口に膾灸している。『延宝伝燈録』に記すところでが、別に『甲乱記』『信長記』などにもあるという。

この二句、じつは快川その人の創作でない。『碧巌録』第四十三則「洞山無寒暑」の公案について、円悟の提唱に引く古語であり、そのもとづくところは、唐末の詩人杜荀鶴の作品である。そして、原作の意味はすこぶる壮烈でない。

今、『全唐詩』巻第二十六に収めるものによると、杜荀鶴集第三に、「夏日、悟空上人の院に題す」とあって、つぎのように見える。

三伏、門を閉して一衲を被す、

兼ねて松竹の房廊に蔭する無し。

安禅は必ずしも山水を須いず、

心中を滅し得て、日も自から涼し。

句意は単純である。真夏日の照りつける禅院で、ひとり坐禅している悟空上人の心境をたたえたのだ。悟空上人は、禅宗史の書にその名を見ないが、おそらくは作者の方外の心友であろう。杜荀鶴には、方外の作品がかなりある。

唐末といえば、戦乱の時代である。元亀・天正の乱世を生き貫いた快川の心境に通ずるものがないとは言わないが、作品の姿はまったく別である。快川は杜荀鶴の作品を直接に使ったのではなくて、明らかに『碧巌録』を経由している。問題は、むしろそこにあろう。

「洞山無寒暑」の公案というのは、つぎのようなものである。

ある僧が洞山にきく、「暑さ寒さにおしまくられています。どう逃げたものか。」洞山、「厚さ寒さのないところにゆかれるがよかろう。」僧、「暑さ寒さのないところは、どのようなところでござる。」洞山、「寒いとなれば、君を凍てあがらせる。暑いとなれば、君を蒸しあげる。」

暑いときは暑いまま、寒いときは寒いまま、などという風流事ではない。寒暑は避けられぬという諦念でもない。寒暑のないところを、洞山はずばりとつきつける。最後の一句の、語気が大切である。

『趙州録』に、これとよく似た問答がある。「四方から山がおしよせて来ます、どう脱したものか。」趙州はただ一句、「脱け出た様子もないわ」と答える。また、別の僧の同じ問いに、「俺には四方もないわい」と言う。四方の山とは、生老病死のことだ。この場合も、生老病死は避けられぬ、などというのではない。無生死の自分そのものを、ずばりつきつけたのである。

百丈は、火に入って焼けず、水に入って溺れぬ自由を説いて、焼けたければ焼け、溺れたければ溺れることだ、と言っている。解脱とは、無寒暑すらないことである。

ある老婆が趙州に、「女人は五障の身でございます。どうすれば天井に生れることができましょう」と問うと、「願わくば一切衆生の天上に生れ、この老婆ひとり長く地獄に沈まんことを」と、趙州は答えている。老婆のいう「女人」一般と、趙州のいう「この老婆ひとり」は、同じ人間を指しながら、姿勢が全くちがっている。禅問答のねらいは、そんな語気の妙を把ませるところにある。

円悟が「洞山無寒暑」の説明に、杜荀鶴の句を引くのも、右にいうような語気を示すためである。とくに、円悟はこれを杜荀鶴から直接に引くのではなくて、黄龍死心の代語からとっている。死心は洞山のさいごの一句に、こんなコメントをつけるのである。「洞山和尚、あまりキツイこと言いっこなしでっせ、わしならこう答えますがな。」そして例の二句がつづく。従来の緑巌解釈は、あまりにも無寒暑につきすぎている。死心の代語の妙を見落としている。

こんな話をきいたことがある。天台宗の開山智顗が体系化した坐禅の方法、四種三昧の一つでも、中国では完全に実践した人はないようだ、智顗その人も、おそらくやってはいない、ところが、日本にはそれがある、と。

四種三昧は、坐と行という二つの姿勢をえらんで、常坐、常行、半行半坐、非行非坐という四つの精神統一の仕方を規定したもので、はじめの二つについて言えば、九十日のあいだ、食を節し客を謝し、横になって眠らず、大小両便のとき以外は常に坐と行をつづけるものである。強固な意思と体力なくして、とてもやりとげられるものではない。話によると、その日本僧は、めでたく満願ののち、数年して死亡されたという。

中国の仏教は、大らかである。天網恢恢である。決して無理がない。日本人から見ると、だらしないようだが、やることはちゃんとやっている。智顗は説いて行じなかっただけである。「大砲から革命が生れる」などという言葉も、誤解するととんでもないことになろう。快川の死は崇高である。しかし、二度とくりかえしたくないものだ。

(第3巻『初期の禅史Ⅱ』栞より)

格に入りて格を出づ

岡倉天心も、茶道を禅の表現として見ては居るが、彼は「茶道の要義は不完全なるものを崇拝するにある」といふ。しかし、茶道の妙味は、彼がいふ如き「故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働によってこれを完成させる」ところにあるのではなくして、むしろ完全なるものを否定するところになければならぬ……。茶道に於ける「不均斉」、「不完全」は、均斉、完全への方向を持つものではなくして、均斉、完全の自己否定である。

久松真一先生の、「聖の否定としての禅」の一節、昭和初年の執筆である。先生の美学は、すでにこの一段に出尽くしている。それは、もっとも個性的、かつ宗教的である。

後年、先生は『禅と美術』で、竜安寺の石庭を説明して、次のようにいわれる。

「鳥啼いて山更に幽なり」とか、或は「伐木丁丁山更幽」というような古句があります。「一鳥啼かず山更に幽」というような言葉は死んだ句で、ナイーヴで而も非常に浅い静かさしかないのですが、「鳥啼いて」といった、啼くということによって、啼かないという場合の静かさとは、大変に質の違ったものになっている……。

先生の宗教哲学では、こんな美学を作用とすることで、一般に考えられる宗教哲学以上に宗教的なものとなる。それは、もっとも禅的なものといえる。芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」がそれであり、良寛の「観音」に、「風定まって花尚お落つ 云云」とあるのも、すべてその先例となる。いずれも、中国の六朝以来の詩論に、その根拠をもとめることができるし、宋の慧洪の「天廚禁嚮」は、それらを集大成して余すところがない。

「格に入りて格に出づ」という句について、出典を探して久しい。いまだに、明確な資料を見つけていない。だいいち、中国製か日本製かの見当すらつかないのだが、さいきん、それにちかいもの二つの所在に気付いた。いずれも、日本の藝道論に関係していて、先の久松先生の主張につながる。

第一は、無住道暁の「沙石集」第十である。

凡ソ世間出世ノ格ヲコエテニアタルニ、アタラズト云事ナシ。格ノ中ニシテ格ヲイデザルハ、或ル時ハアタリ、或時ハアタラズ。其故ハ、礼儀ヲ存ジテ、又ヲリヲシリ、時ニ随テ、礼儀ニカヽワラザル、コレ格ヲ越タル人ナルベシ。

無住はここに、南都律院の火事のこと、武州の僧が渡宋の経験にこだわって融通のきかなかった例、和泉式部が保昌にうとまれて巫女と共に「マエヲカキアゲル」話、その他をあげて、次にように結ぶ。

スベテハ礼儀ヲシラズ、格式を弁ヘザルハ云カヒイナシ。凡夫ノ、智恵ナクシテ生死ノ猒ベキヲモ知ラズ、菩提ノフベキヲモ知ラズ、徒ニ流転スルガ如シ。礼儀ヲ弁ヘテ堅ク格ヲ守リテ越エザルハ、二乗ノ生死ヲ猒ヒ、空寂ニ住シテ、衆生ヲ利セザルガ如シ。礼儀ヲ存ジテ格ニカヽハラザルハ、菩薩ノ生死ヲ出テ、菩薩ニ住セズシテ、群生ヲ利スルガ如シ。サレバ、経ニハ「大智ノ故ニ生死ニ染セズ、大悲ノ故ニ菩薩ニ住セズ」ト云ヘリ。内ニハ万法ノ自ラ虚ナル処ヲ達シ、外ニハ衆生ノ愚ニ迷ヘルヲアハレンデ、生死菩薩ノ二際ヲ達シテ、共ニ住セズシテ三世ニ利益スル、コレ大乗ノ菩薩ノ、格ヲ越タル心也。

第二は、大西克礼氏の『風雅論』に引く、「祖翁口決」のつぎの一段である。

格に入つて格を出ざる時は狭く、又格に入ざる時は、邪路にはしる。格に入、格を出て、はじめて自在を得べし。詩歌文章を味ひ、心を向上の一路に遊び、作を四海にめぐらすべし。

「祖翁口決」は、芭蕉についで伊勢派を開く乙由の子、麦浪が所持していたとい俳書である。伝書とよばれるものは、往々にして、いかがわしいものが多いけれども、芭蕉に集大成される俳諧の理論が、右の「格ニ入リ云云」を骨子としていたことは、確かであろう。それはおそらく、無住のいうように、仏典の大智と大悲の論にもとづく。

日本仏教は、はじめから格を出るところに特色を発揮する。親鸞の「悪人正機」は、その典型である。出るは易く。入るは難いのである。

一休の「骸骨」にも、「いにしへは道心をおこすひとは寺に入りしが、今はみ寺をいづるなり」とある。同じ意味に解してよいだろう。

「格ニ入リ云云」は、今のところ、中国の古典にその先例を見つけにくい。久松先生の「鳥啼いて」と、方向が逆になっているのも面白い。深く入るために、出るのである。出るために、入るのではない。格という発想が、いったいどこから来ているか、まずそのことを問う必要があろう。

(第15巻『雪竇頌古』栞より)

日興費万銭

杜甫の「飲中八仙歌」に、禅と関わりのある人物が、幾人か登場する。大半の人物が道教に傾くのは、その首題からしても当然だが、禅者の場合は、開元初年の新しい空気を伝えていて、興味ぶかい。

就中、「蘇晋は繍仏の前に長斎し、酔中に往往、逃禅を愛す」の二句は、禅に逃げたのか禅を逃げたのかで、解釈が分かれはしても、そこに顕わに禅の文字があって、蘇晋の人がらを明示するといえる。すでに知られるように、荷沢神会の言葉を集める「南陽和尚問答雑微義」は、礼部侍郎蘇晋が神会に対し、大乗と最上乗のちがいについて問う一段を収める。最上乗とは、禅宗のことである。自性の空寂なるを見て、さらに観を起さぬことだと、神会は教える。そこで蘇晋は、最上乗に修行は無用なのか、諸善万行を修める必要はないのか、ときりこむ。自性の空寂なるを見たものには、万行ともに備わり、無明があっても業とはらなず、業は本来不生であると、神会は説く。酒仙とよばれた蘇晋が、それをきいて如何に満足したかを、空想させる。

蘇晋は、『唐書』に父の蘇珦とあわせ立伝されていて、能文の人であったという。じじつ、さいきん知られた韋頊の碑文は、この人の作品である(『西安碑林』書道全集第二十六その他)。韋頊は京兆の名族で、中宗の皇后韋氏の血縁である。韋后の弟の泂、同じく娘の永秦公主の墓も、韋頊の墓と同時に発掘されて、見事な副葬品や碑銘が知られた。又、韋頊の弟に浄覚あり、この人は『楞伽師資記』の編者である、初期の禅史を考えるものには、そんな韋氏一族と蘇晋の周辺に、ただならぬ興味が涌いて当然だろう。

さて、「飲中八仙歌」と初期の禅史に関わりをもつ人物は、蘇晋にとどまらぬ。「宗之は蕭灑たる美少年、觴を挙げて白眼に青天を望む、皎として玉樹の風前に臨むが如し」とある崔宗之が、『神会語録』に登場する斉国公であることは、語録の校注者胡適の、つとに注意するとおりである。

興味ぶかいのは、「左相は日に興じて万銭を費す、飲めば長鯨の百川を吸うが如し」と歌われる左相、すなわち左大臣李適之のことである。この人が太宗の廃太子李承乾の孫で、玄宗の又いとこに当ることは、『杜甫詩注』第一冊に明記されるとおりである。李適之は、神会と関係をもたないけれども、禅宗第五祖弘忍の法をうけ、蘄州龍興寺に住した法規の碑文を書いていることは、すでにわたくしの『達摩の語録』(本シリーズ第1巻)の解説に考証がある。李適之は、開元時代の禅宗に有縁であった。

いうならば、「日に興じて万銭を費やす」の五字は、禅の文脈で解するのが至当ではないか。じつはこの一句、古来正解を欠くのだが、相似の句は、禅の語録のかなり例がある。たとえば、『臨済録』の示衆に、「日に万両の黄金を消す」というのがそれだ。消すは受用の意で、ここでは受けることである。毎日、黄金百両を手にしてよいというのである。かつて、『臨済録』の注をまとめたとき、わたくしは次のように書いている。

この言葉を正しく理解するには、インドの原始教団で、出家者が毎日の乞食に、一日の生活に必要以上の金銭を受けることを、厳しく禁じている事実を考えあらわすべきであろう。根本説一切有部尼陀那第二によると、このことについて仏陀が、汝等もし信心を以て出家し、真実に涅槃を求めて浄行を修するなら、此の人の著ている衣服は、一億両に相当するものだ。我はそれを受けることを許す、食も住居も、みな同じである。然し、真実信心を失うならば、一口の食を受けても破戒である、と教えたという。(『訓註臨済録』六八頁)

同じ趣旨の言葉は、さらに『証道歌』にも『百丈広録』にもみえる。前者の場合は、「四事の供養、敢ぞ労するを辞せん、万両の黄金も亦た銷得す」である(本シリーズ第16巻『信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』91ページ)。四事の供養とは、衣食住の資と薬をいう。当時、信者の供養をただ貰いする悪僧ばかりが多く、真実信心の出家が少なかったことを、この句はものがたる。

もともと、仏教徒にとって、飲酒は御法度である。飲酒が仏戒にそむくことを、このくにの文学は、つねにおのれのテーマにしつづける。かの陶淵明が廬山の白蓮社に加入するのに、飲酒を条件としたことは、有名な話であるが、それでも彼は、「忽ち眉を攢めて帰り去った」といわれる。

左大臣李適之は、新しい禅宗の徒であった。「左相日興費万銭」の一句は、この人が本物の仏教徒であった証拠である。かれはもはや陶淵明のように、眉を攢めて帰り去ることなしに、毎日毎日、万銭の酒を楽しむことができた。

ここにきて、逃禅の句もまた正解を得る。禅を逃れる必要はないのだ。繍仏の前に、しかつめらしく長斎するよりは、しょっちゅう禅に逃げるに限る。それが、開元の精神であった。覇気なお盛んなる、壮年期の杜甫の作品である。逃禅も日興も、先例のない詩句であるだけに、詩人がこの作品の行間にこめた、新しい禅への期待が読めておもしろい。もしそれ、長い彷徨のあげく、夒州に来てから、例の百韻で、「身を許す双峰寺、門は求む七祖の禅」と歌う、晩年の詩人の憂愁については、問題は自から別となる。

(第14巻『輔教編』栞より)