一
石庭や障壁画をたずねて、禅寺の門をくぐると、たいていの玄関の柱のところに、「照顧脚下」と書いた小さい木札が打ちつけてあるのに気づく。文字どおり、あしもとに気をつけて入れという意であるが、われわれはまずこの木札によって、無言の警告をうける。
森閑たる禅院の玄関は、いかにもこの言葉がふさわしい。はじめて禅院に入るとき、この句の与える感激は、きわめて新鮮である。靴や草履をきちんと揃えて脱ぎ、拭き清められた板縁をふんで通る心情は、すでに世俗のものではない。むしろ、きびしい参禅修行だとか、むつかしい禅録の講義はわからなくても、めいめいの履物を自分で揃えて上るところに禅の心がある。だいいち、玄関という言葉なども、もとは禅のものである。それは、最初の入門であるとともに、いちばん深い奥義の意を含んでいる。
さいきんの住宅は、特別に玄関らしいものを作らぬ傾向にあるが、床の間は無用でも、玄関は不可欠である。玄はもともと黒色や天などを意味するが、老荘の語としては、天地万象の根源となる道を指し、普通は目につきにくくて、うっかり見逃してしまうけれども、それなしにはすべてがありえぬ道理のことである。
二
ところで、「照顧脚下」という言葉は、中国の禅録ではあまり見かけることがない。まったくないわけではないが、古くは「看脚下」と言ったようであり、「看脚下」より「照顧脚下」への変化はかなり注意を要する。
いま、中国の禅録の中で、この言葉の用例を探すと、大慧宗杲(一〇八九‐一一六三)の場合がもっとも古いようである。
すなわち、宗という宮内庁図書寮の官吏の質問に答えた手紙の中で、かれはつぎのように言っている。
どうか、貴下自らの脚跟下に照顧して、日常さまざまの環境なるものが、いったいどこから起っているのかを反省されよ云々。(本シリーズ第17巻『大慧書』153ページ参照)
ここで大慧が、「貴下自らの脚跟下に照顧して」という原文は、「於脚跟下照顧」であり、「足もとを見よ」の原文「看脚下」とも、「照顧脚下」とも少し異るが、いずれも極めて普通の日常語でありながら、禅の心を表す点で、前者より後者の方に次第に深化しているように思われる。しかも注意すべきは、最後の「照顧脚下」という言葉が、禅の特色を表すのに、いかにも必要にして充分である点である。もともと、使いならされた日常語なるものは、どんなすぐれた作家の文章よりも、簡にして要を得ている。こうした洗練された日常語を見出したことは、禅が中国諸宗の中で、既に最も日常的な仏教になりきっていたことを示している。
さらに、この語の宋代における用例をもう一つあげよう。有名な『五灯会元』を編した大川普済の「住慶元府岳林大中禅寺語録」の上堂の末尾にいう、
今、わたしは座より下って僧堂を巡り、諸君に喫茶をすすめる、くれぐれもめいめいの足もとに気をつけられよ。
宋代の僧堂では、「各自照顧」とか、「照顧火燭」とかいう言葉が常用されていたらしい。後者は、謂うところの「火の用心」のことであるが、ここには最も具体的な事象に即して、最も深奥な道理を指示する生活文化の響きがある。「照顧脚下」という言葉が宋代の禅録に見えることの少いのは、それがあまりにも日常的であった故かもしれぬ。
三
いずれにしても、ひたむきに中国の文化を学んだかつての日本人は、より中国風であることを誇りとした。そのために、中国ではきわめて日常的なものが、日本ではかえって特殊なものとなった、禅院での日常茶飯の生活作法や、住持が弟子たちに与えた何でもない実用の書が、茶道や禅の書として尊ばれた。それは、何よりも禅の心を表すものとされた。
しかし、中国の禅では、心と生活とがもともとつねに一つであったのに比して、日本人は中国的な文化をすべて禅の表現と考えるようになった。この傾向は、日本人がその後中国以外の文明に接するようになっていっそう強まった。禅文化とか東洋文化とよばれるものは、じつはもっとも近代的な概念である。そこには、すでに二重の受容のゆがみがあり、国籍喪失者の悲歎を蔵している。
周知のように、『荘子』の秋水篇に、寿陵の余子の故事がある。昔、燕の寿陵の地の青年たちが、邯鄲の都に出て、都会の人の歩行を学び、未だその力を得ぬうちに、自からの母国の歩行の仕方も忘れて、ただよろよろと故郷に帰るほかはなかったという、文化と生活の乖離を笑うものである。じっさい、「足もとに気をつけよ」という警告は、とりわけ禅文化とか東洋精神と呼ばれているもの自身への、真摯な反省でなければなるまい。
以上、はなはだ説教調になって恐縮だが、じつは「照顧脚下」という言葉の、宋代におけるもう一つの用例、遂寧府西禅文璉禅師の上堂の現代的演繹である。詳しくは『五灯会元』巻二十の本文について見られよ。
(第17巻『大慧書』栞より)