浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第二章 小説

第二章 小説

3 『山月記』 中島敦

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 猛獣のような性情と愛の欠落というこの二つの原因は、どちらも自分自身に拘泥した悲劇ということでは似ていますが、より詳細に見れば、自我の肥大による悲劇と芸術至上主義による悲劇だともいえます。実際、そのような解説をした書も少なくありません。

 しかし、李徴はこのほかにも虎になった原因を述懐しているのです。

 いったい、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを覚えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?(『現代文 新訂版』79頁15行目、『精選現代文 改訂版』27頁15行目)

 一言でいえば「輪廻」ということなのでしょう。「前世」という言葉は死語になったと思われるのですが、テレビで大真面目に現在の幸不幸・境遇を「前世」で断じている様子がさしたる非難を受けずに受け入れられているのを見れば、この言葉にもそれなりの説得力があるかもしれません。

 このように、自分が虎になった原因を李徴自身が三通りも考えているということや、先述したように『人虎伝』が記す原因が省略されていることを考え合わせれば、原因は定かではないというのが自然ではないでしょうか。

 しかし、高校生に限らず、多くの人は原因の特定を求めているのですね。虎になったのは「猛獣のような性情だから。」「愛がないから。」「前世が虎だから。」という発想は、そこからくるのでしょう。『棒』でも述べましたが、多くの人はすべてを因果関係で捉えようとします。そこには、今の自分の身に起きている不幸には何か原因があるはずだ、その原因が特定でき、それが排除されたら、今の自分の身に起きている不幸から逃れることができる、という思いもあるのかもしれません。

 しかし、特定される原因の方が少ないのが現実です。例えば、自分の生まれ育った環境や、心身を襲った不幸などに、そう簡単にわかりやすい原因などあるはずはありません。まして、「運命」や「宿命」といわれるものについてまで原因を求めるとすれば、超自然的なものに傾倒せざるを得ないのかもしれません。ショー的とはいえ、テレビや雑誌等が超自然的なものを売りものにするのは、このような見えない原因を特定したいという人々の、それなりに切実な需要に応えたものだともいえます。

 この小説のヒミツの答えはここにあります。世の中には、愛や正義・因果関係では説明できないものがあるのです。むしろ、その方が多いのかもしれません。そういう現実に、私たちも、そして李徴も生きているのです。

 自分は茫然とした。そうして懼れた。まったく、どんなことでも起こり得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。分からぬ。まったく何事も我々には分からぬ。理由も分からずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由も分からずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。(『現代文 新訂版』78頁13行目、『精選現代文 改訂版』26頁13行目)

 李徴もまた同じです。何とかして自分の身に起こった悲劇を納得したいのです。なぜ自分だけがこのような境遇に立ち至ったのかが承伏できないのです。だからこそ、その時々でいろいろな原因に思い至っているのです。そういう意味では、この李徴の苦悩は、詩の章の『二十億光年の孤独』でも触れたように「実存」によるものだといえるでしょう。『山月記』の李徴と『人虎伝』の李徴との決定的な違いがここにあります。『山月記』の李徴は近代人・現代人なのです。

 これも虎になった李徴の述懐ですが、ここには、運命に対して無抵抗であり、理由の分からないものをただ受け入れざるを得ないという不条理、人間という存在に対する嘆きがあります。人間がこの世界に投げ出された状況とは、まさにこういうことでしょう。理由などないのです。それを人間は、自分たちの物語に理由づけようとして悪戦苦闘しているのです。

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