ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第一回(6/6)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第一回 『舞姫』のモチーフについて
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滞独記念三部作『舞姫』『うたかたの記』『ふみづかひ』

 明治二十三(一八九〇)年一月、滞独記念三部作の最初である『舞姫』が発表されました。同じ年の八月に『うたかたの記』、翌年一月に『ふみづかひ』の順で発表されました(最初に書かれたのは『うたかたの記』という説もあります。与謝野寛・森潤三郎)。『舞姫』はエリス事件の影響もあって、豊太郎=鴎外と受け取られ、論争の種となったものです。雅文体で書かれているにも拘わらず、極めてリアリスティックな内容でもあり、その矛盾が今日に至るまで論議の対象とさせているわけです。これについては次回から述べていきます。

 『うたかたの記』は最も浪漫的色彩の強い作品で、心ならずも去って行ったエリスの面影を追懐する過程で生み出されたものでしょう。ここで、『うたかたの記』のヒロインについての描写をいくつか挙げておきましょう。

 そのおもての美しさ、濃き藍いろの目には、そこひ知らぬ憂ありて、一たび顧みるときは人の腸を断たむとす。
 こなたへふり向きたる顔は、大理石脉に熱血跳る如くにて、風に吹かるる金髪は、首打振りて長く嘶ゆる駿馬の鬣(たてがみ)に似たりけり。
 かの凱旋門上の女神バワリアまた胸に浮かびぬ。(「鴎外全集」第二巻 岩波書店)

 この美しきヒロイン・マリーは、主人公である画家・巨勢(こせ)のモデルとして登場します。マリーは、巨勢を誘ってノイシュワンスタイン城の近くにあるスタルンベルヒ湖に行きますが、城の主で、かつてマリーの母を恋して狂ってしまったルウドヰヒ第二世の突然の出現に驚いて湖に落ち、亡くなってしまいます。運命のいたずらによって、巨勢はマリーを失ってしまいます。マリーはエリスだったのです。

 「作者鴎外が自分の離婚の體験を形を變へて書いたものであった。」(『森鴎外―文業解題 創作編』一九八二年 岩波書店)とは、『文づかひ』に対する小堀桂一郎氏の言です。まさにそのとおり。『文づかひ』のヒロイン・イヽダ姫は、鴎外自身です。愛情の持てぬ許婚との結婚を嫌い、ドレスデンの王宮へ脱出する姫は、母・峰子の決めた結婚を嫌い、新婚の家である上野の赤松家の別邸から脱出した鴎外その人なのです。

 以上、滞独記念三部作は、まことに暗いのです。鴎外は自らの青春をこのように総括せざるを得なかったのです。彼はエリスの面影を我が心から消すために三部作を書きました。その結果、目的は達成されたのでしょうか。

『舞姫』のモチーフ

 『舞姫』執筆の動機としては、第一にエリスへの懺悔ということが挙げられます。二番目は、直接の上司である石黒忠悳への回答(「エリス問題は片を付けたぞ」)であるとともに、石黒への批判です。石黒への批判ということは、官僚機構への批判をも含みます。三番目の動機としては、スキャンダルを逆手に取って、「自分は山県有朋(作中では天方伯)のブレーンである」と作品で暗にほのめかすことによって、自己の立場を強化しようとしたのではないか。四番目は、プライベートな目的。つまり、家族、特に母親に対する自らの行為の説明(言い訳)です。一つの行為の目的が一つとは限りません。ましてや鴎外は複雑な人間です。二重人格と言っても決して過言ではありません。エリスへの謝罪の気持ちに嘘偽りは無かったでしょう。しかし、転んでもただでは起きないのが鴎外です。極めて通俗的な目的をも果たそうとしたのです。彼は理想主義者であると同時に現実主義者でもありました。

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