ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第六回(2/5)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第六回 結末
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相澤の目論見と豊太郎の姿勢

「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でむの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ会ひには行け。」

 聞かれてもいないのに、豊太郎は政界進出は数年前に断念したなどと言っています。これは語るに落ちるというもので、つい本音が出てしまったのです。政界への進出を彼はあきらめていませんでした。

 大臣に面会して依頼されたのはドイツ語で書かれた書類を日本語に翻訳せよという簡単なものでした。期待していた豊太郎にとっては拍子抜けするようなものでしょう。しかし、これは相澤による豊太郎復活計画の第一歩でした。豊太郎の能力を知り抜いている相澤は論より証拠、強引な売り込みは却って逆効果だと判断したのです。そして彼に重要なアドバイスを与えます。

またかの少女との関係は、よしや彼に誠ありとも、よしや情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交はりなり。意を決して断て、と。

 相澤は世俗に通じた人物です。男と女が知り合って交際を始めれば自然に深みにはまって行く。お前の交際もそんなものの一つに過ぎない。お前は恋物語の主人公のように思っているかもしれないが、そんなものは掃いて捨てるほどあるというのです。恋愛に関して相澤は功利的な考えを持っています。彼にとって女性とは子供を生む機械であり、結婚は出世のための手段程度にしか考えていなかったのでしょう。しかし、そもそも恋愛とは、相手の出自や学歴を知った上で始めるものでしょうか。

 豊太郎は、この親友の親切なアドバイスをどう受け止めたでしょう。彼はエリスと相澤を天秤にかけます。彼には、エリスとの愛の生活を一気に清算するだけの勇気はありません。エリスの自分への愛を捨てる気もありません。ここで注意すべきは豊太郎の姿勢はあくまで受け身だということです。

 何事においても豊太郎は重要な場面で主体的に行動することはないのです。従って彼は責任を感じないのです。ここでも彼は判断を下すことは出来ませんでした。その言い訳として「弱き心」を持ち出して来ます。これは責任回避以外の何物でもありません。そして、とりあえず相澤の顔を立ててその場しのぎのOKの返事をするのです。彼は強いもの、自己に利益を与えてくれるものには反抗出来ない体質があります。官僚体質は抜け切っていなかったのです。

 相澤の作戦は順調に進展して行きます。書類の翻訳をスタートに、次第に豊太郎の才能・学識を評価し始めた天方大臣はロシアでの国際会議に彼を通訳として随行させることにしたのです。

 実はこれにはモデルがあります。第一回でも触れましたが、明治二十(一八八七)年にドイツのカールスルーエで開かれた第四回万国赤十字国際会議に、鴎外は日本政府代表で上司の陸軍軍医監・石黒忠悳の通訳として出席しました。この時、鴎外は会議が欧州中心で後進地域を無視した議事に怒りを覚え、石黒の許可を得てドイツ語で反論の演説を行いました。石黒はこの堂々たる演説に感心し、鴎外に対する信頼を厚くします。これを作品中では場所をロシアに移し、石黒を天方大臣に代えているのです。鴎外の得意は作品中にそのまま表れています。

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