ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第六回(3/5)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第六回 結末
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エリスの情熱と豊太郎の懊悩

 ロシアでの滞在中、エリスは手紙攻勢をかけます。最初に届いた手紙は妙に生々しいものです。

次の朝目覚めしときは、なほ独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でしときの心細さ、かかる思ひをば、生計に苦しみて、今日の日の食なかりし折にもせざりき。

 二人はどのようなベッドで寝ていたのでしょうか。エリスは目覚めると、いつもの習慣どおり手を差し伸べたのです。しかし、空っぽでした。あるべきところにあるはずのものがない。人はそこに寂しさを感じるのです。エリスは今さらながら喪失感の大きさに驚くのです。しばらく経ってからの手紙はさらに切迫した思いが伝わって来ます。去る者は日々に疎しと言いますが、エリスは逆でした。豊太郎への愛の強さを再確認したのです。何があろうと私は豊太郎さんを離さない。どこまでもついて行く。

 この手紙を見て豊太郎は自らの行為の結果に恐れ戦くのです。容易なことではエリスと別れることは出来ないのだと。しかし、ここでも彼は責任を回避しようとします。

頼みし胸中の鏡は曇りたり。

 鈍かったからエリスとの関係をしっかり考えることが出来なかった。というのです。ここまで来ると狡猾としか言いようがありません。さらに極め付きは、次の部分です。

大臣はすでに我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて思ひ至らざりき。

 これも真っ赤な偽り、これは競走馬が走るのをすっかり忘れていたというのと同じです。

 「なんぢが名誉を回復するもこの時にあるべきぞ。」という相澤の手紙に反応して飛び出して来た豊太郎が出世のことを忘れるはずがないのです。しかし、出世コースへの復帰の代償として自由喪失の苦痛を再び味わうことを覚悟しなければなりません。

 ロシアで大活躍した豊太郎はエリスの許へ凱旋します。時あたかも元旦。朝日に輝く路上のダイヤモンドのような氷片の描写は、彼の得意絶頂の心理を表しています。今か今かと待ち侘びていたエリスは豊太郎の馬車を確認すると妊娠中であるにもかかわらず、四階(五階)から駆け降りて来て豊太郎に抱きつきます。ここへ来てようやく豊太郎は本当のことを言います。

我が心はこのときまでも定まらず、故郷を思ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せむとせしが、ただこの一刹那、低徊踟[足+廚]の思ひは去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我が肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。

 やはりそうだったのです。豊太郎は、出世への思いを断ち切れなかった。望郷の思いも当然あった。しかし、この瞬間、彼の心は決まったのです。僕はもう君を離さないぞ、と。

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