健康保菌者の公衆衛生と人権とは

ウイルスによって差別や社会の分断を進めてはならない

伝染病の恐怖と闘う現代人が、今読むべき歴史的教訓の書

病魔という悪の物語 ─チフスのメアリー 金森修

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イラスト:「ニューヨークアメリカン」紙、1909年6月20日版より

20世紀初め、毒を撒き散らす悪女として恐れられた患者の衝撃の実話

突然の強制隔離、条件付きの解放、そして失踪から驚きの展開へ──。 彼女のとった行動と社会の反応が残したものは、これからの私たちに警鐘を鳴らしている。

料理人として働いていたメアリーは、腸チフスの無症候性キャリアとして、本人に自覚のないまま雇い主の家族ら50人近くに病を伝染させたことで有名になり、チフスのメアリー(Typhoid Mary、タイフォイド・メアリー)という通称で知られている。

彼女は14歳の時にアイルランドからニューヨークに移住したアイルランド系アメリカ人で、多くのアイリッシュ同様に貧しかったが、料理の腕が買われ、住み込みの家政婦として働いていた。ただ、住み込み先を変えるたびにその家から感染者が出ていた。

衛生官のジョージ・ソーパーによる詳しい調査の結果、感染源がメアリーにあると確信。そこで医師をメアリーに向かわせ、保菌者であるかどうかの検査を要求したが、メアリーは逆上して騒ぎを起こし、とうとう警官がでて強制的に彼女の便を回収、隔離することになる。

納得しないメアリーは怒り狂い、ニューヨーク市衛生局を相手に隔離の中止を求めて訴訟を起こす。センセーショナルな記事は世間の注目を集め、Typhoid Maryとしてその名が広く知れ渡るようになる。裁判は衛生局が勝利したものの、一般の人と接触しないこと、料理の職にはつかないことを条件に隔離が解かれる。

しかし、しばらくして彼女は失踪する。そして5年後に居所が判明するのだが……

これは、明日の私たちだ

目次
1909年の新聞に載ったメアリーの肖像
1909年の新聞に載ったメアリーの肖像

はじめに

ある料理人の運命/料理を介した死?/主人公の名前/個人と全体の利害対立/歴史のなかの「善と悪」?/悲しみという感動/基礎資料

第1章 物語の発端

事件以前のメアリー/チフス患者の発生/賄い婦の「履歴」/最初の接触/衛生局への依頼/公衆衛生という権力/ソーパーとメアリー/ノース・ブラザー島/治療の試みと検査/命名/最初期の社会的反響

第2章 公衆衛生との関わりのなかで

腸チフス/チフスと戦争/チャールズ・シェイピン/腸チフスの感染原因/攻撃的公衆衛生/硫黄燻蒸と蒸気殺菌/「病気の汚物理論」の批判/周辺環境から個人へ/健康保菌者の危険性/健康保菌者という概念/這いまわるキャリアたち/小僧っ子ジンの死/衛生局のパニック/ 穣れの街/文化的錯綜のなかの囚われ人

第3章 裁判と解放

法的な問題/「チフスのメアリー」の露わな登場/ある判例/オニールの問いかけ/メアリーの主張/孤軍奮闘のメアリー/判決が下る/やや唐突な解放

第4章 再発見と、その後

自由になって/恋人の死/婦人科病院での発見/風向きが変わる/キャリア・リスト/有名なキャリアたち/メアリーの再検査/隔離の必要性は?/歴史の吹きだまりのなかで/仕事に就</一日旅行/小さな宇宙/卒中の発作/葬式

第5章 象徴化する「チフスのメアリー」

一般名詞化するメアリー/勝ち馬に乗る歴史/髑髏とフライパン/小説のなかのメアリー/象徴化する「チフスのメアリー」

おわりに

エマージング・ウイルス/エイズ/都市伝説/邪悪なゼロ号患者?/繰り返されうる構図/一人の人間がつむぐ歴史

本文より抜粋
「恐ろしい伝染病が、いつ社会に蔓延するかは誰にもわからず、もしそうなれば、電車で隣に座る人が、恐ろしい感染の源泉に見えてこないとも限らない。(略)そして、この生物学的な恐怖感が私たちの心の奥底に住み着き、いつその顔を現すかはわからないような状況が、人間社会の基本的条件なのだとするなら、未来の「チフスのメアリー」を同定し、恐怖を覚え、隔離し、あざけり、貶めるという構図は、いつ繰り返されてもおかしくはない。(略)もし、あるとき、どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通の人間なのだということを、心の片隅で忘れないでいてほしい。
Mary_Mallon_in_hospital
一度目の隔離の様子

病魔という悪の物語 ─チフスのメアリー 金森修

金森修

病魔という悪の物語 ── チフスのメアリー

2006年3月刊行/144ページ/本体760円+税/
ISBN:978-4-480-68729-6

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金森修(かなもり・おさむ)

1954年札幌市生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。パリ第一大学哲学博士。専門は科学思想史・科学史。筑波大学、東京水産大学(現、東京海洋大学)を経て、東京大学大学院教育学研究科教授。主な著書は『フランス科学認識論の系譜』『負の生命論』『自然主義の臨界』『遺伝子改造』(以上、勁草書房)、『バシュラール』(講談社)、『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会)、『科学的思考の考古学』(人文書院)、『科学の危機』 (集英社新書)、『科学思想史の哲学』(岩波書店)、『人形論』(平凡社)。2016年逝去。