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『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(二百三十六段)

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●兼好は聖海上人の愚かさを笑ったのか?

 『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(第二百三十六段)は、次のような解釈がなされている。

 覚めた人である兼好にとって、愚者の過信は笑うべきことであった。子供の悪戯の結果を、何か特別の神意ででもあるかのように受け取った聖海上人は、そこで笑いとばされる。上人の言葉に感心する一行の姿も同時に笑いの対象として、はなはだユーモラスに描かれており、それだけかえって兼好の批判は痛烈である。(『新編日本古典文学全集』44 小学館 1995年)
 丹波の出雲神社に参詣した聖海が、子供の悪戯とも知らず、変わった立ち方をした狛犬に感動したという滑稽談。(『新日本古典文学大系39 方丈記 徒然草』岩波書店 1989年)

 聖海上人の失敗を笑うという見方が、ここには共通している。しかし、ここで兼好は、聖海上人の愚かさを笑っているのだろうか?

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