太宰治賞
第30回

2013/10/25

小川洋子 言葉とは何かという問い
小川洋子(作家)

 一通り候補作を読み終わってすぐに、迷いなく、『さようなら、オレンジ』だ、と思った。この作品が受賞にふさわしい理由はいくらでも説明できる。しかし、理屈など越えたところで、これは自分にとって意味深い小説であるという確信が持てた。選考委員として幸福な体験だった。
 沈黙の沼の底でおどおどと怯えながら、一つ一つ言葉を握り締め、その重みを支えにして光の射す方向へと浮上してゆくサリマの姿は、まるで初めて言語を獲得した最初の人間のようだ。世界にたった一つの言葉もなかった遠い昔、勇気ある選択をした一人が、目の前の誰かに向かい、そっと声を発する。その瞬間の緊張感に満ちた空気の震えが、サリマの声を通して伝わってくる。サリマの物語に寄り添うのは、はるかに時間をさかのぼり、誕生したばかりの言葉の原子に耳を澄ませるのに等しい。
言葉とは何かという問いをたどってゆくと、その先に必ず物語が隠れている事実を、受賞作は証明している。しかもサリマは頭の中だけで答えを求めているのではない。彼女には二つの国を比較したり、社会の仕組みを分析したり、他者を非難したりしている暇はない。彼女の生活は、血の滴り落ちたタイルの床に這いつくばって、肉を捌く労働に縛られている。習得すべき言葉は、生臭い血液にまみれている。それを受け入れるのは、すべてを吸い込み何の痕跡も残さない砂漠の地に生まれた彼女にとって、大きな苦痛を伴うことだった。
 そこから少しずつ彼女は、自分の世界を押し広げてゆく。働きに出る自分を見送ってくれるのは、月と霧だけだ、と言うサリマに教育係は、一人じゃなくてよかった、と声を掛ける。スパゲッティの袋に印刷された調理方法が理解できた一瞬、知る喜びが知らない恐怖をほんのわずか向こうへ追いやる。ゲストスピーカーの準備を手伝うハリネズミの、ハチドリのように見事な手つきが、二人の友情の確かさを象徴する。
 こうした場面を書き手は感傷に陥ることなく、安易な手出しもせず、淡々と描写している。サリマとの距離を的確に測りながら、常に温かみのある視線を注ぎ続けている。
 ここでどうしても触れておかなければならないのは、視線の送り手が、作品の中に登場している点だ。日本人サユリは、自らも言葉の壁に苦しみつつ、更には子供を亡くす不幸にも見舞われながら、ナキチをサリマとして描き出す決意を固める。その過程が手紙の形で挿入されるのである。
 一歩間違えば破綻しかねない手の込んだ構造なのだが、全体を見通してみると、この書き方でしか成立しない物語なのだと納得させるだけの力を備えているのが分かる。サリマ(ナキチ)とハリネズミ(サユリ)、二人の苦悩が重なり合い、響き合うことで、言葉に関わる闇の密度がいっそう濃く立ち現れてくる。また、日本人がアフリカ難民の女性を日本語で描くという不自然さが、書き手の事情を取り込む大胆さによって解消されている。サユリの精神の根源を震わせるほどのサリマの美点、言い訳を知らない粘り強さや、人それぞれの使命を見抜く賢明さは、母国語によってしか表現できない。母国語とはつまり、精神の土台そのものなのだ。
 アパートの階段で、サユリが階下に住むトラック運転手トラッキーに、児童書を朗読してやる場面が忘れ難い。聖書で彫ったという見事な刺青の持ち主で、離婚により息子と生き別れになっているトラッキーは、俺の息子はこんないい本をひとりで読めるのか、と言ってチャプターごとに涙を流す。自分が読めない言葉を息子は読んでいる。それは断絶を意味しながら同時に、父親としての彼に誇らしさをもたらす。
『さようなら、オレンジ』には、言葉が連れて来るささやかな喜びが満ちている。生き物の中で最初に言葉を発した勇気ある人間の選択が、間違いではなかったのだと思わせてくれる。
 あまり賛同は得られなかったのだが、『矩形の青』に示された作者の試みを、私は評価したい。淀橋浄水場を一つの核にし、それが時代とともに変遷してゆく時間の流れと、人間の生きる時間を上手く照らし合わせている。浄水場の歴史も、雨の行方の科学的な説明も、ごく自然に人の営みと結びついている。最初、無関係に見えた行祐と由香莉が少しずつ接近し、遂に店で出会うストーリの流れは、読者を引っ張る力を持っている。
 ただ、大叔父、木崎の存在が中途半端に終わってしまったのが惜しまれる。作中、最も興味深い人物であるはずの彼が、単なる死者としての役割しか果たしていない。恐らく、彼の残した品々の描写が希薄だからではないだろうか。せっかく浄水場や雨といった人間以外のものを魅力的に表現しているのに、彼の店に遺された品物は、単なる本やレコードの扱いで済まされている。だからこそ、彼がやっていた〝特別営業”の意味も、ぼんやりしたものになってしまった。もしかすると〝特別営業”は、小説の題材として重要な可能性を持ち得たかもしれないのに、それが十分に生かされず残念だった。
『背中に乗りな』は、さわやかで、軽やかで、しかも真っ当な小説だと思う。さまざまな立場の個性的な登場人物たちを描き分け、生き生きと動かしている。小道具としての牛の扱い方も巧みで、ラストの一行とタイトルの呼応が鮮やかだ。
 選考会の流れがほんの少し変わっていたら、『さようなら、オレンジ』と同時受賞ということもあったかもしれない。けれどそうならなかったのは、サリマやサユリと比べた時、登場人物たちの奥行きがどこか物足りなかったからだと思われる。置かれた環境の深刻さが問題なのではなく、作者が登場人物たちの心の奥を、どこまで真っ直ぐ見通して書くかの問題なのだろう。ポイントカードの枚数を数えて心を落ち着かせたり、特定の外国製の缶詰しか食べられなかったりするか弱さは、作者が考えるよりもっと奥深いところに根を張っている。
『人生のはじまり、退屈な日々』に描かれる架空の世界は、破綻なくそこに存在している。しっかりした文章で、暴力の魔力に取りつかれ、否応なく危険な場所へと導かれる主人公を描き出している。相当の実力がなければ完成し得ない作品であるのは間違いない。しかし私にとって、この作品に入り込むのは難しいことだった。よくできたハードボイルドとして、ハラハラドキドキ楽しめたというわけでもなく、暴力のマグマを覗き見てたじろぐ、というわけでもなかった。
 やはり架空の世界だからこそ現れ出る独自のもの、不気味さでも空虚さでも滑稽さでもいい、何かが、どうしても必要なのだ。

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