太宰治賞
第30回

2013/10/25

三浦しをん 技巧に自覚を
三浦しをん(作家)

 最終候補に残った四作とも、楽しく拝読した。受賞に至らなかった三作も、一定の水準以上にある作品だと思うので、気を落とさずに研鑽していっていただければと願う。
 選考委員全員が一番に推したのが、『さようなら、オレンジ』だ。これまで加藤典洋氏と私の意見は見事に一致してこなかったのだが、ついに「惑星直列」なみの奇跡(?)が生じたことを、互いに言祝ぎあった。たとえ小説の読みかた、感じかた(安直に言えば「好み」)がちがったとしても、「これはすごい」と読めば共通して納得し、胸揺さぶられ、さまざまに考えや思いを巡らせることのできる、奥深くすぐれた作品である。
 母語ではない言語を獲得して生きるとは、どういうことなのか。淡々とした筆致ながら、実はものすごく情熱的に、物語を通して真摯に表現されているのが素晴らしい。各登場人物(特にアフリカからの難民であるサリマ)が生き生きと立体的に描かれており、まるで親しい友だちに対するように、読みながら応援したりハラハラしたり悲しんだり憤ったりした。「異国での暮らし」を、ドラマティックに仕立てるのではなく、登場人物たちにとっての「日常」として等身大に描き、そこに差すほのかだが重要な希望の光を提示したことで、異国で暮らしていないものにとっても真に迫って感じられる、「人間と言語」についての普遍性を備えた物語になっていると思う。
 語りや情報提示のタイミングに関しても、作者の神経が配られ、技巧的でもある。デビュー作でこんなふうに書けるひとは、そう多くはあるまい。ただそれゆえに、技巧に対してどこまで作者が自覚的なのか、気になる点もあった。以下、本作の構造についてのネタバレなのでご注意ください。
 本作は最後の最後で、メタ構造であることが明らかになる(具体的には、登場人物の一人であるサユリが書いた物語だと判明する)。それを踏まえて考えると、途中で差し挟まれる二通のメールが英文のままである根拠がよくわからない(いくつか理由を想像しようと思えばできるが)。読んでいる最中は、メールが英文なのは効果的だ。しかし、メタ構造であると考えれば、「なぜここだけ英文?」と、やや違和感がある。サユリがジョーンズ先生に宛てた手紙(もとは当然英文だっただろう)が、日本語に翻訳された形で読者に提示されるから、なおさらだ。だいいち、サユリはジョーンズ先生宛の手紙の下書きかコピーかを、わざわざ手もとに残しておいたのだろうか。それとも、「こんな手紙を先生に出したっけ」という記憶をもとに、内容を日本語訳して再現したということだろうか。
 率直に言おう。メタ構造だとラストでわかった時点で、「じゃあこの話は、いろいろつらいこともあったけれど、周囲のひとから励まされ、『きみには才能がある』と言われ、『そうかも』と思ったサユリが書いてみた小説ってことなのか」と、少々鼻白む思いがなくもなかった。つまり、サユリ万歳をサユリ本人が小説にしたということで、どんだけおめでたいんだサユリ。サリマやオリーブの物語、私が渾身で応援した登場人物たちは、すべてサユリがサユリを讃えるための駒に過ぎなかったのか。意地の悪い見かただが、メタ構造にしたことで、そう読まれてしまう余地が生じているのではないかと危惧される。
 同様のことは、サリマの名が本当はナキチだと明かされる点についても言える。これによって本作のメタ構造が決定的になるわけだが、私は疑問を禁じ得ない。母語以外が使用される土地で暮らす苦労、そのなかでもう一度母語について考え、異国語を習得する過程で母語を獲得しなおす、という展開にもかかわらず、サユリはサリマから本名を剝奪する。物語を紡ぐ(この小説を書く)ために、だ。いくらナキチという名が、「食べ物がない」という意味だからといって、これはあんまりではないか。ナキチの両親が、ナキチのために、部族の言葉と文化風習に基づいてつけた名前だろう。サユリは本当に、「人間と言語」について考えたのか?ナキチをはじめとする人々は、おまえ(サユリ)が自己実現の一手段として物語を書くために存在するのではないぞ、ごるぁ。読者(少なくとも私)にそう思われてしまう隙が、メタ構造にしたことによって生じたと感じるのである。もっと言えば、ナキチの名がサリマに変更されたのは、サユリとサリマのイニシャルを同じ「S」にし、序盤での手紙の差出人がだれなのか、読者の興味を惹くための、サユリ(および著者のKSイワキ氏)の計算ではないかとも思える。重ねて言うが、登場人物は作者(メタレベルでの作者および現実レベルでの作者)の駒として存在するものではないはずだ。
 本作は、テーマや語りから考えて、メタ構造に決着させるのが(最善ではないかもしれないが)順当だと思う。しかし、その手つきがややこなれていない。メタ構造にしたことによって、ツッコミどころのみならずサユリの考えかたや性格や姿勢への疑念が湧いてくる。ひいては、本作の重要なテーマだと思われる「人間と言語」についても、ブレや矛盾が露呈しているのではないかと考える(登場人物の心情レベルでのブレや矛盾ではない。それはあってしかるべきで、なにも問題ではない。構造上のブレや矛盾のことを言っている)。現状、三人称でサリマについて語られている部分は、なぜナキチの名ではダメなのか。いや、メタ構造を成立させるためには名前の変更が必須なわけだが、では本作においてメタ構造にする必要は本当にあるのか。単行本化する際、作者および担当編集者は、作品のために、もう一度考えてみていただきたい(その結果、やはりメタ構造を採用するなら、それはそれでいいのではないかと思う)。この作品を素晴らしいと感じ、登場人物たちに肩入れしたがゆえに、長々と書かせていただいた。技巧にもっと自覚的になる。登場人物が技巧によって駒に変じてしまう可能性を回避する。それを心がけるのが大切だと、個人的には考える。
『背中に乗りな』も、私は非常にいいと思った。会話のテンポがよく、ユーモアがある。ただ、ラスト近くの「牛になりたい」あたりは、やや直球で語りすぎだろう(ラスト一行はとてもいいが)。描写やエピソードを重ねることで表現したほうがいい。牛の確定申告の話も、登場人物に大事なことを語らせるために取ってつけたように出してきたエピソードに見える。ぬいぐるみも、(応募原稿の段階では)最初は「羊」だったのにラストで「牛」になっている。話を作るためにエピソードを流してしまったり、アイテムを思いつきで使用したりするのは、小説を人工的な印象にするので気をつけたほうがいいと思う。場面転換も少々わかりにくい点がある。湧きでてくる文章を、推敲の際にもう少し客観的に統御すれば、もっとよくなるはずだ。いろいろ書けるかただと思うので今後に期待しています。
『人生のはじまり、退屈な日々』は、ラストがとてもいいなと思った。しかし、「紛争」の実態がわかりにくく、主人公の一人称が気負っていておおげさかつスカしているように感じられるのが残念だ。本作で描かれる倦怠や暴力は、日常にひそむ重要な部分にたしかに触れているとは思ったが、十全に表現しきれているとは言いがたい。紛争といった特殊設定を使わず、ストレートに取り組んでもいいテーマではないだろうか。
『矩形の青』は、浄水場の歴史が興味深いが、いかんせん心情的なドラマがなさすぎる。三角関係の真相が明かされるのが遅いのではないだろうか。明かされてみたらみたで、女も女を寝取った男もとんでもなくイヤなやつ、そんな人間と友だちづきあいをつづける主人公は利用されてるだけのただのバカ、に見えてしまい、このひとたちをどうとらえていいものやら途方に暮れた。構成(エピソードの配置と盛りあげどころ)について、一考するといいだろう。

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