太宰治賞
第30回

2014/11/12

三浦しをん 熱気あふれる野性の冒険譚

 最終候補作はいずれも力作で、高水準にあった。そのなかで、私が一番に推したのは『コンとアンジ』だ。「この作者以外には書けない(思いつくこともむずかしい)作品だ」と感じたからだ。発想力、文章のリズムや密度、作品に籠もる熱気は、努力でどうにかするのがほぼ不可能な部類に入るものだ。
 では、そこまで図抜けた才能(のようなもの)がないひとは、書くのを諦めねばならないのかというと、そんなこともないと考える。実際、きらめく才能を持ちあわせぬ書き手もいるし(私もその一人だ)、いくら才能があっても、プロとして(つまり依頼に応えて)書いていくうちに、発想が枯渇し、文章が荒れ、熱気が薄れるという事態も訪れるかもしれない。「才能ないや」と絶望する必要はない。ただ、新人賞においては、少々の破綻を恐れず、恥ずかしがらず、自身の熱気を作品にぶつけることがかなり大切ではないかという気がする。また、書きつづけるのならば、才能の有無に関係なく、「考えつづける」ことがなによりも大事だろう。
 橙貴生さんの『深夜呼吸』は、風景描写や心情描写がよく、主人公の桐野に思い入れて読むことができた。思い入れすぎたあまり、桐野の両親に激烈な怒りを覚えたほどである。ここに、本作の若干の弱点があるのではないか。本作は三人称だが、かぎりなく桐野の一人称に近い(たとえば地の文でも、両親のことを「お父さん」「お母さん」と表している)。そのため、両親がなにを考え、感じているのか、あくまでも桐野の視点からしか描かれず、「いくらなんでもひどすぎる親だ」と読者は感じてしまう。同時に、「両親の言いぶんも聞いてみたいものだが」と、作品に漂う少しのアンフェア感を嗅ぎ取らずにはいられない。つまり現状だと、「けなげにがんばる女の子の成長を描く」という作者の意図が前面に出すぎている。本作の場合、桐野一人称に徹底するか(そうすれば、「けなげにがんばる女の子」の語り口で魅せることができ、作品に新たな武器がひとつ加わる)、もっと客観的な三人称にするか、どちらかにしたほうがよかった気がする。情報提示の段取りにもやや難がある(なぜ傘ではなく合羽なんだと思ったら、あとで自転車通学とわかる、とか)。さほど重要でない部分は、もったいぶらずに情報を明らかにし、読者に無用なストレスをかけないよう配慮するとともに、作品にリズムを生みだすべく心がけると、もっとよくなるだろう。
 秋野佳月さんの『ジンクレールの青い空』は、ユーモアがあり、主人公の「俺」の人柄に非常に好感を抱いた。お調子ものでいいかげんなようでいて、優しく純粋。魅力的だし、実際にこういう男性はいるだろうなと思う。老若男女の書き分けもよく、どの人物もとても生き生きしている。クライマックスの盛りあがりも、情景的に爽快感があった。ただ、「俺」は文章力がないそうだが、とてもそうは思えない文章で、一人称小説のむずかしさを痛感する。また、「ジンクレール」がなんなのか、タイトルにもしているのだから、もうちょっと目くばせがあっていいのではないか(「俺」が苦手な読書をして、「これかあ」と気づくとか)。そして本作も、情報提示のタイミングが悪い。舞台は荒川沿いらしいが、都内ではなく埼玉のようだと読者が気づくまでに時間がかかりすぎる。親友の名を出さず、「あいつ」呼ばわりを最後までつづけるのも腑に落ちない。一人称なのだし、具体的な地名(架空のものでもいい)や名前をちゃんと出したほうがいいと思う。戦争やゼロ戦の扱いに関しては、どうこう言うだけの知識を私は持ちあわせぬ。気になったのは、「俺」やヒロインの年齢設定からして、祖父や副総理の年齢が高すぎるのではないか、ということだ。主人公が三十代半ばから四十代ならば、ゼロ戦に乗った経験のある祖父がいても納得がいくが。
 寺地はるなさんの『こぐまビル』は、冒頭がちょっと読みにくいが、そのあとは文章の流れもよく、会話にもユーモアがあって、登場人物が魅力的だった。感動的なシーンになりそうなところで、笑いに落としてしまう「わたし」の在りかたも含羞が感じられ、私はとても好きだ。喪失をどう乗り越えるか、それぞれのひとがあがき、受け止め、静かに心を浄化させていくさまが丁寧に描写されている。本作の最大の弱点だと私が感じたのは、トビーさんがそんなにいいひとに見えないことだ。サイコキラーかなんかなのかな、と思ったほど、ピンと来なかった。しかしトビーさんは無論、サイコキラーではないのだった。となると、色気も意外性もない男としか思えず(好みの問題だが)、トビーさん絡みのエピソードが響いてこない。これは構成の問題もあって、読者は当初、「幸彦がしゃべるか否か」に重点をおいて本作を読むはずだ。ところがその問題は、本作中盤で早くも解決してしまい、かわりにトビーさんが前面に出てくる。読者(少なくとも私)は気持ちの切り替えがうまくできず、トビーさんへの思い入れが完了せぬまま、話の展開に置いてけぼりを食う感がある。もうひとつ、含羞があるのが「わたし」のいいところだが、それゆえにトビーさんへの恋心が鮮明に描写されず、彼に美点や色っぽさがやや欠落しているように感じられてしまうのではないか。そこはもっと直裁に、情熱的に、「わたし」に語らせてよかったのではと思う。
 井鯉こまさんの『コンとアンジ』は、個性的な語りと怒濤の展開で、「なんじゃこりゃ」と言いつづけながら読んだ。どことも知れぬ南国を舞台に繰り広げられる、神話的な冒険譚。性別も国籍も言語も越境してまじわりあう人々の、圧倒的な野性とにおい。ロマンス物としても破格でおもしろい。アンジからほとばしる色気といったらどうだろう。こんな男がいたら、そりゃ恋に落ちるし妊娠する。そう、プロット自体は、「恋と妊娠によって変化する女性」という、非常にありふれたものなのだが、ありふれた物語だったのだと気づくまで、読了後三十秒ほどかかった。ありふれていることは、決して悪でも傷でもない。小説で大事なのはプロットではなく、あくまでも「語り口」「見せかた」なのだと、これ以上なく証明してみせた作品だろう。物語はありふれてるけど、小説としてはまったくありふれていないのだ! ラストがいくらなんでも怒濤すぎるという意見もあったが、私はこのラストを全面的に支持する。本作の神話性は、このラストによっていよいよ強靱なものになっていると感じるからだ。ただ、ぶつ切れの文章が、情景描写になると途端にふつうの文章になってしまう点は気になる。そこは、ぶつ切れ方向に多少均したほうがいいだろう。また、アンジとジェシカの関係など、もう少しだけさりげない説明があっていいと思う(作者の責任として、読み筋をもう少し確定させるべき)。いずれにせよ、ほんのちょっとの加筆で済む程度のことだ。本作を読み終わったとき、私の胸にあったのは、「すごい作品だ!」という心地よい興奮だった。

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