太宰治賞
第31回

2015/06/24

第31回太宰治賞選評 加藤典洋「主人公が死なないこと」
 三浦しをん委員が選考委員の辞退を申し出られて、慰留に努めたが果たせなかった結果、今回の選考は、変則的に三名によるものとなった。やはり淋しい感が否めない。しかし、応募作のほうは多彩で、幸い、なかには力あるものもしっかりとあった。
 稲葉祥子さんの「装飾棺桶」は、ガーナの装飾棺桶をめぐる不思議な話である。美術方面の世界ではなかなか知られたものらしいが、一九四〇年代末くらいからはじまった風習から生まれた装飾ひつぎが、アフリカ美術を代表する美術品として出回るようになった。ある日、その展覧会の記事を見た主人公が、会場を訪れ、ザリガニ型の棺桶にひどく惹かれて独断でこれを購入する。そこに身を入れ、眠ると夢の形で過去が蘇る。以後、大手損害保険会社に勤める四十代の主人公は、家族から離れ、車を引き払ったガレージにそれを安置し、そこで寝泊まりをはじめる。妻との関係も冷え切り、息子、娘との関係もどこかコマ落とし風の淡泊なものになり、作品の記述も、いよいよ淡々と高速度撮影のようなあっけなさで主人公一家の行く末をたどっていく。ある意味ではそれだけ。短編なら落とし所のある好編になったかもしれないという指摘もあったが、私は、この話が、「オチ」なしにただ淡々と人生という坂を転がっていくそのさまが、なんだか愉快でもあった。
 棺桶が届くと、娘がいう。「なんでザリガニなの」、父が答える、「お父さんにもわからないんだ」、「あたし、シマウマの方がよかったな」。人生とは何とつまらないものであることか。そしてそこになんと可憐な小さな花が咲き、そのまま枯れていくことか。奇妙に心に残る。けれども、賞には推せない。
 佐佐木陸さんの「あたらしい奴隷」にはこれに対し、ある切実な気配がある。話の出来は稚拙なのだが、その稚拙さがそれとしての仕事をしている。舞台は海辺の地方都市。主人公のトガノは高校三年の十七歳。幼少のころから続けてきたバレエが壁にぶつかっており、やめることにした。その日から物語ははじまる。やがてイーナという十一歳の混血の少女に海辺でバレエを教える日々がはじまる。学校にはやはり混血のカサイがいて、背中に大きな火傷の痕をもつカサイに、トガノはひそかに恋心を抱いている。
 人種と、セクシャル・マイノリティにまつわる差別、バレエにことよせられた芸術、さらに家族をめぐる問題。一つ一つがそれだけで一個の作品の主題となるような大問題が雑多に投げ込まれ、さらに途中からは地方都市を揺るがす大きな犯罪事件が主人公の身にふりかかる。語りの構造もアンバランスで、こうした構えがこの作品を大雑把なものにしていることは否めないが、私には、当初から「役柄」が決まったかのごとき登場人物、また物語の配置の通俗性が、なんとも受け入れがたかった。作品というのは、こういう当初の目論見と配置が、予期せぬ暴風雨にあう経験なのだろうと思うのだが、風は吹かず、海は残念ながら凪ぎのままである。
 高萩匡智さんの「川向こうの式典」は、東日本大震災、大津波、原発事故とその被災者の物語を、大水害にあった水力発電所のある町の話にずらし、虚構化する物語という体裁をもっている。ことによれば作者は、この発想を育てることで、もっと違う地点にまで行けたのかも知れない。でも、「あたらしい奴隷」と同様に、自分が現時点で書いてみたいものをここに無造作に投げ込むことで、この作品を一種、「闇汁」のようなものにしてしまっている。話の軸は、およそ二十年前の水害事故で祖母一人だけを残し、家族全員を失った主人公と、町全体を襲った四年前の大洪水の対照、そしてその中を生き延びた祖母と主人公のもう一つの向かい合いの物語にある。しかし、主人公のデザイン(芸術?)にかける思い、職場での同僚とのやりとり、また二人の女性との恋愛譚など雑多な要素が、ごく自然に、無頓着に、同じ語り口のうちに作品の中に流れ込み、この物語の基軸を押し流している。
 最後、祖母の死にまつわる自分の行動が、事後に主人公を苦しめる。でもそこは、だからといって「自首」を考えるところなのか、はたまた「自殺」の思いが訪れるところなのか。そういう物語の陽のあたる場所を注意深く避けて、この主人公はぼんやりと苦しみ続けていくはずなのではないか。そう思い、そのあたりで、私の中の読者としての心は折れた。何とも印象の悪い同僚の安田が、主人公のいちばんの苦境の場ですっと違う存在になる。そこが作中、私にこの作者の度量を感じさせる、好ましい場面だった。
 なかで、伊藤朱里さんの「変わらざる喜び」が、小説の初心者が書いたとは思われない緻密な作りとなっている。ちょっと小川洋子委員の初期の作品を思わせる。不倫の相手が子どもを授かり、その赤子がもう生後二ヶ月になっていることを、前職の職場の新年会で知らされる冒頭の入り方。読みはじめてすぐに私は、その張り詰めた文体の感じに、どうもモノが違う、という気にさせられた。この小説にもセクシャル・マイノリティの友人が主人公の「親友」格で登場する。また読んでいくと、主人公には幼少時に肉親による性的虐待を受けた記憶があるらしく、重度の接触恐怖が彼女を外界からへだてている。その抑圧された記憶が正しいかどうかを含め、どうもこの一人称小説が「壊れた語り手」によって書かれているらしい感触を、次第に読み手は受けとる。何か困ったことがあり、逃げ道がなくなると「私」はへらへらと笑う。こういう小説は、どう終われるのか。途中から心配になりながら、私は読み進めた。
 ところが、終わり近く、とんでもない企みが仕掛けられている。それは、明かせばいわゆるネタばれ、になるようなあざといと見える仕掛けである。誰もがここで躓くのではないか。私も躓いた。そういうものはふつう、覚醒剤使用にも似て小説を一時元気づけるが、同時に浅くて腰軽な作りにしてしまう。しかし、不思議なことに、再読し、どこでどのように「企まれ」た結果、読者としての自分が「たばかられた」かと見ていくと、そのような個所はない。作者はけっしてあざとさによって読者を操作しているわけではないのである。このような作品で、初読よりも再読のほうが心を打たれるとはどういうことか。読み手の通念がもっているいわば「読むこと」の中の暴力、そうしたものに、読者は―つまり私は―ふれる。主人公は最後、死なない。それは大事なことだ。その代わりに湯船に浸かり、水の姿をした世界にからだごとまさぐられつつ、この世界にコミットしようと自分から電話をかける。
 そこまで小説を書きつないだ作者の力量に、私は説得され、脱帽した。作中、主人公の「親友」が「いいじゃん。したくなけりゃ、しなければいいのよ。私もそう」「職場でカミングアウトしろとかやたら言う奴いるけど、余計なお世話だよ」という。文章のむこうで姿を見せない作者の心は、熱いのである。

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