ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 「高ため」を黙読する授業第六回(6/6)

「高ため」を黙読する授業

(この連載は、機関誌『国語通信』1996年春号~1999年春号に掲載された文章を転載したものです。)
第1回 わたしのアンソロジー
第2回 密室をつくる
第3回 逆習シール
第4回 テキストを編集する
第5回 モーツァルトへの手紙
第6回 教室に風を入れる
服部左右一(はっとり・さういち)
愛知県立小牧高等学校教諭
元愛知県立小牧工業高等学校教諭
『高校生のための文章読本』編者
筑摩書房教科書編集委員
長年「表現」分野の指導メソッド開発に携わる。

第6回 教室に風を入れる
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6 教室にもどる

  「高ため」黙読シリーズを今回で終わることにする。一九九六年四月の第一回目は、前年度の報告として一回だけのつもりで書いたが、九六年度に入ってからも黙読授業を続けていくうちに同僚の二人もこの方法を授業に取り入れ始めた。話し合いの中から授業のバリエーションが増えて新しい展開が出てきて、次々と報告を書くことになった。九七年度に現任校に転勤してからも継続してきたので、一回だけの予定が六回になった。

 三年間このハットリ・メソッドで行なった授業をふりかえって、もっとも印象に残るのは生徒たちの提出するレポートの豊かさである。どんな構成で作られているか、どの部分が引用されてどんな感想が書かれているかを考えながらレポートを読んでいくのは、日帰りの旅の楽しみのようなものである。毎日見慣れている生徒がそのレポートの中ではいつもと違った顔を見せるのである。

 この落差に驚いているのは教師であるわたし以上に生徒たち自身であるかもしれない。授業で書いたものを編集してプリントにすると、書いた本人がすぐとなりにいるのに「ほんとにこのクラスの生徒が書いたの」と言っている。授業でも発表する機会がほとんどなく、議論ということばが教室では行方不明になっていることを一番よく知っているから、かれらは自分たちのだれ一人としてこんなにのびのびと自由奔放に書けるはずがないと深く信じ込んでいるのである。

 あるいは、授業とは先生の話を聞き、黒板の文字を写すことだと思い込んでいるのである。それらを覚えテストで正解を書いて点数を取れば、それから先は考えなくてもよいと勘違いをしている。それから先に自分の考えが作られて、人生が伸びていくことに思いが至らない。

 日本の授業方法は、あまりにも生徒の発言の場が少なすぎるとの投書が新聞の声の欄に出ていた。彼女は海外の日本人学校で中学三年間過ごして帰国した人で、日本にもどってからの高校三年間を振り返って次のように書いている。

  「(海外では)日本人学校ではあったが、生徒の数は少なく、授業は生徒中心だった。私たち生徒は、常に授業に真剣で、自分の考えや意見は、言いたい時に言いたい放題述べていた。
それに比べて日本は、寝ている人やおしゃべりしている人などの中、先生が一人で授業を進めている。例えば英語の授業では、先生が教科書を読んで訳して重要表現を説明するだけで終わってしまう。英語の授業なのに、生徒は一言も英語を話す時がないのだ。
確かに、日本の学校は一クラスの人数が多いので、何十人もの意見が飛び交うと、先生も収拾がつかなくなってしまう。しかし、その何十人の中でも自分の意見を持ち発表する勇気が必要ではないだろうか。」東京都・高校生・一七歳(一九九七年一二月七日『朝日新聞』朝刊「声」より)

 わたしが黙読授業を始めた背景にはこの高校生が描いてみせた現在の学校環境があった。『国語通信』誌上六回にわたって展開してきたハットリ・メソッドによる授業の核心部は記述することにあるから、口頭での意見発表をすすめるこの投書の主張と直接結びつかないが、最初は静寂と喧騒の両極に引き裂かれた教室の現状からの脱出を計る一つの手立てとして出発したのだった(『国語通信』第三四六号「わたしのアンソロジー」参照)。

 ハットリ・メソッドもまだ始めたばかりで、これからどう変わっていくか分からないし、それがまた楽しみでもある。反響もいくつか出てきた。以前『国語通信』編集部にも寄せられたし、現任校でも一緒にやり始める人が現われて心強くなった。年賀状に、「なかなか思ったようにはいきませんが、それでも生徒の読後感にハッとさせられたり、教えられたり……。この感覚は新鮮です。」と感想を書いてくれた教師仲間もいる。

 窓を開けて教室にちょっぴり新しい風を入れてみてはどうでしょう。教室の空気が少し変わるかもしれません。

(おわり)

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