ドイツ人の女性が日本で禅を学ぶ、その綿密な記録だ。後々晩年になっての執筆のようだが、とても当時の日本、日本人、そして参禅していた日々がこちらにも目に浮かぶようで興味深かった。
読みすすめると、著者のその禅への探究の真摯さがひしひし迫る。「公案禅」について、とても門外漢には知りえない内部の様子が臨場感を持って伝わる。
読みはじめる当初の、ドイツの女性が、どれほどなんだろう・・、なんて思いが恥ずかしくなる。
最近は参禅している人に外国人も多くなったということだし、アメリカでもフランスでも禅を学ぶセンターがあるという話はテレビで五木寛之さんなども紹介していたが、むしろ日本では、そういう人にまわりにあまり出会う機会がない。
正直にいうと、外国から来た方の過剰な賛辞、表現とも感じられるほどではあるのですが、その当時の日本いや日本人、この現在から見ると、ちょっと別の国の話かと思うほどで、そういう日本、日本人の生活、作法というか、その描写が興味深い。
それが、数十年たった今、物質の豊かさを目指して失ったのか、置いてけぼりして、とうとう日本人は忘れたのか、当事者である日本人の我々が、過去のフィルムを見せられているような郷愁があるのが不思議だ。
夏目漱石の「門」だったか、「結局のところ、かれは門をくぐる人ではなかった」というような主人公は、夏目漱石自身の近代自我を象徴するものだったのか、西欧の合理、個人の確立を日本人はずっと命題として来たのかもしれない。しかし河合さんが言うように、なにもかも合わせるにはそもそも土台、土台が違うことを無視してのやみくも、それも含まれて来た戦後の日本だった。
「不生禅」という教えを説いた盤珪の言葉のある箇所に、著者は要約してある和尚のはなしを書いている。
弟子が「よからぬ思いが湧いて来て、押さえ付けるのが難しい」と師匠に問う。
和尚は「押さえ付けようとするものがよからぬ者だ ! 」というようなことを返す。
我々は自らの内にふつたに分裂し、こんなふうに敵をつくっては葛藤している場合も多いだろう。いや、よくみればそれが真実だろう。
それを見極めるということ、それは自由ということの本来の姿を見つけることでもあるだろう。
読み終えると、著者が亡くなるまで、禅の経験と日本での想い出が、彼女の人生を深く変え、支えたことがよく分かりもします。
読みすすめると、著者のその禅への探究の真摯さがひしひし迫る。「公案禅」について、とても門外漢には知りえない内部の様子が臨場感を持って伝わる。
読みはじめる当初の、ドイツの女性が、どれほどなんだろう・・、なんて思いが恥ずかしくなる。
最近は参禅している人に外国人も多くなったということだし、アメリカでもフランスでも禅を学ぶセンターがあるという話はテレビで五木寛之さんなども紹介していたが、むしろ日本では、そういう人にまわりにあまり出会う機会がない。
正直にいうと、外国から来た方の過剰な賛辞、表現とも感じられるほどではあるのですが、その当時の日本いや日本人、この現在から見ると、ちょっと別の国の話かと思うほどで、そういう日本、日本人の生活、作法というか、その描写が興味深い。
それが、数十年たった今、物質の豊かさを目指して失ったのか、置いてけぼりして、とうとう日本人は忘れたのか、当事者である日本人の我々が、過去のフィルムを見せられているような郷愁があるのが不思議だ。
夏目漱石の「門」だったか、「結局のところ、かれは門をくぐる人ではなかった」というような主人公は、夏目漱石自身の近代自我を象徴するものだったのか、西欧の合理、個人の確立を日本人はずっと命題として来たのかもしれない。しかし河合さんが言うように、なにもかも合わせるにはそもそも土台、土台が違うことを無視してのやみくも、それも含まれて来た戦後の日本だった。
「不生禅」という教えを説いた盤珪の言葉のある箇所に、著者は要約してある和尚のはなしを書いている。
弟子が「よからぬ思いが湧いて来て、押さえ付けるのが難しい」と師匠に問う。
和尚は「押さえ付けようとするものがよからぬ者だ ! 」というようなことを返す。
我々は自らの内にふつたに分裂し、こんなふうに敵をつくっては葛藤している場合も多いだろう。いや、よくみればそれが真実だろう。
それを見極めるということ、それは自由ということの本来の姿を見つけることでもあるだろう。
読み終えると、著者が亡くなるまで、禅の経験と日本での想い出が、彼女の人生を深く変え、支えたことがよく分かりもします。