ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 「高ため」を黙読する授業第一回(5/6)
(この連載は、機関誌『国語通信』1996年春号~1999年春号に掲載された文章を転載したものです。)
服部左右一(はっとり・さういち)
愛知県立小牧高等学校教諭
元愛知県立小牧工業高等学校教諭
『高校生のための文章読本』編者
筑摩書房教科書編集委員
長年「表現」分野の指導メソッド開発に携わる。
第1回 わたしのアンソロジー
第2回 密室をつくる
第3回 逆習シール
第4回 テキストを編集する
第5回 モーツァルトへの手紙
第6回 教室に風を入れる
第1回 私のアンソロジー
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5 音読から黙読へ

 以上はこの三月に卒業した三年生の三学期に行なった授業の記録である。自動車科と電気科の二クラスでそれぞれ一〇時間ほど授業をしたが、一度も音読をしなかった。すべて生徒の黙読にまかせた。計画的にではない。困ってこまってコマリ抜いて突き抜けた末の捨て身の選択が音読から黙読への転換だった。

 音読による授業ができなくなれば、黙読の利点を最大限生かした授業に切り換えるしかない。音読は同時に多数が読める(とされている)、いわば集団の時代の読み方と見ることができる。詩人たちが自作を朗読し文学談義を交わすスタイルのサロン文学が一七世紀のフランスで確立されたが、そこに出入りしたのは当時の知識人や文学愛好家であったから、蓄積された教養を土台にして音読による文学談義が成り立ったと考えられる。

 いま、教室に集まっているのは現代の知識人でもないし将来の文学者を目指す特別な集団でもない。カラオケ、ファミコン、ビデオ漬けの身体をやっとの思いで教室まで運んできた、予習とは無縁の若者である。かれらが発する私語と聞き取れないほどの小声による音読。この見慣れた風景の中で若者たちは教科書(ここでは副読本)のことばとどれくらいの切り結びができるというのだろうか。

 途中で止まって想像したり同じところを何度も読み返したり最初に戻ってみたりしながら、自分のペースで読む黙読がベースになっていなければ、読むことの面白さやワクワクする楽しさは自分のものにならない。これはわれわれ自身の経験と照らしあわせてみればよく分かることだろう。ゆっくり読む、速く読む、繰り返して読む、中断するなど、読まないことも含めて個の時代の読み方である黙読の長所を生かした授業をせざるを得ない環境が、いまや準備されつつあるのかもしれない。

 自動車科のM君は黙読中心の授業を振り返って次のような感想を残した。

「今まで中学校、高校と国語の授業の中ではなかったやり方だったので、とてもおもしろかった。しかも、三行以上だけの感想を書けばいいのに、その三行をさがすのに始めから終わりまで読んでしまうので全体的な感想になって、さらにそこからまとめて三行だけの感想を書くと、おわってみれば、すべて頭の中に入ってしまうというぐあいで、はめられた気になってしまう」
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